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9月 01

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会員の広場(2019.9)


俳句

木道の先に灯台草紅葉
雨後の風触れる草木や秋の山 (川口 昭治)

短歌

ひとつひとつ響く言葉の連なりて
素気なき君のそこが大好き (本田 征子)

(投稿)五行歌

カモメと青い海
砂浜にはハマナスの花
遠くから霧笛がきこえる
北国の大地に
輝く生命があふれている

運 不運
幸 不幸
光る生命あってのもの
磨かれて支え合い
歩みつづけるひとり旅 (浮草)


五行歌

茹で物自慢の男
  哲学的な顔して
   その実
   生協のつゆの素
   使ってるくせに (小町)

 風光り
  新緑萌える
   夏の色
 バケツの中の
  青い空 (浜 正吉)


エッセイ

終戦の思い出

昭和20年8月10日頃から1週間余りの終戦を迎えた頃の話である。私が国民学校3年生、妹は1年、19年に生まれた弟は10ケ月、母は30歳そして従姉妹(22歳)も加わり、学校が夏休みに入りお盆真近い太平洋戦争真最中のことである。父は18年に2度目の出征で帯広の部隊に所属していて、そろそろ外地へ送られるとの報せに母は前年生まれた長男を父に見せたく、5人の旅が始まった。

船と汽車を乗り継いで1日半降り立った駅は札内と記憶している。小さな駅で父が迎えに来て呉れていてバスに乗ったか歩いたのか覚えてないが辿り着いた宿は現在の十勝川温泉であった。静かな所で大きな旅館であった。宿泊客は私達以外はいなかった。翌日、父の案内で部隊のある兵舎に行く、広い敷地内に濃いグリーンの大きなテントが沢山張られ多くの兵隊さん達が出入りしていた。父の兵舎に入ると待っていてくれた兵隊さん達から沢山のお菓子を頂き私達が見たこともなかったチョコレート、キャラメル、乾パンもあった。私は何でこんな処にこんなにお菓子があるのか不思議だった、でも妹と喜び合ったものである。そして3日間程の滞在の朝15日に父がホテルに来て、今日正午に天皇陛下の大事な話があるので駅迄見送れないのでと言って気をつけて帰る様にと言う父に5人で手を振りながら、父も走りながら振り返り手を振る、私も泣きながら手を振ったのを覚えています。

このすぐ後で札内の父の知人の家で皆でラジオを聞き終戦を知る。そして汽車に乗った途端に利尻へ帰ると言う私達にまだ終戦の話が終わって何時間もたたないと言うのに稚内にはロシア兵が占領して女、子供は逃げているとか、利尻には連絡船が通っていないとか、そなデマが飛び混じっていて、母は母乳が出なくなり困りました。取り敢えず途中で母の姉が住んでいる和寒へ寄ることに決めてあったので汽車を乗り継ぎ、叔母達が迎えてくれた和寒で下車、母はすぐ家に電話を入れました。

家には祖父母と私達の妹が2人(6歳、4歳)家の商売である風呂を任せていた男の使用人家族の世話をしてくれていたお手伝いさんが居て、電話に出た祖父の全く稚内も大丈夫で連絡船も普通に通っていて何の心配もないとのこと。

子供心にも母の安堵は計り知れないものがあったと思う。その後、父は9月には無事帰還して家族は喜び合ったものです。今でも妹とあの兵舎で頂いたチョコレートの色と味の話をします。うす茶色のココアの様な色で葡萄糖の味が濃かったねって、あれからもう74年、あの頃のことを知っている人は皆,鬼籍に入り私と妹2人だけの話になります。

それにしても30歳の私の母は凄かったと思います。 (福榮眞理子)

「思いがけなく先祖に逢えた」

4月にわくわく同好会で石狩月形刑務所博物館に同行した。

珍しいもの、立派な人物、又西郷隆盛の弟の写真など数知れない人物の名前、品々未知の世界に見入  っていた。すると奥の方に、飾り気のない古いライフル銃が目に飛び込んできた。それも二丁、ガラスのケースに入っていた。火縄銃から指で引く銃が発明された以前から聞いた事がある。村田式だとなんと私の先祖が発明した本物を見てただびっくり!! 説明書もあり先祖に逢えたような感動を覚え鳥肌がたちました。今でもライフル警察のピストルは村田式だそうです。又母方の父は日本銀行に勤務しており、後に宮内庁に勤務。

いずれにしても歴史にかかわる二人がいた事、令和に変わっても宮内庁は身近に感じるし、これか らも二人を心の中に大事にしまって置きたいと思います。 (斉藤 淳子)


絵手紙


(大西孝子)

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