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豊寿語録 -2006

岩見太市遺稿集『豊寿語録』-2006-

岩見太市

少子高齢社会の新たなシニア人生の生き方、考え方・・・・
さまざまなシニア人生を取り巻くドラマを、皆様と一緒に考えたいエッセーです。ご意見・ご感想をお待ちしています。

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『地域」の改革

(通信2006-01月号から)

明けましておめでとうございます

それにしても、月日の流れの速いこと、焦りすら感ずる今日この頃です。政治の世界で叫ばれている「改革」という言葉。その背景には人口形態の激変に伴う環境の変化、それによって発生する経済基盤を中心とした制度の変化があることは間違いありませんが、そのような変化は当然私たちの暮らしにも大きな変化を与えます。

環境や制度の変化に対応するためには、私たちの暮らしの場である「地域システム」の変化と、私たち自身の「意識」の変化が伴わない限り、バランスの取れた暮らしは訪れません。しかし、一般市民でも、政治家や官僚と呼ばれる方々も含めて人間は生きてきた過去の価値観や経験、体験によって学んだ既得権益から脱皮することは容易ではありません。

柔軟な発想が求められていても、人間の意識は一朝一夕にかわるものでもありません。先進諸国の高齢化社会から高齢社会への推移を見ても50年以上の期間を要しています。フランスは114年と言う長い期間にランディングしているのに対し、わが国は僅か24年しか、かかっていません。如何にわが国の少子高齢社会への道程が急ピッチであったかが、わかると思います。

今私たちは、そのようなハンディを乗り越えて、新しい時代に適応したシステムに再構築する必要性に迫られています。ハード面のまちづくりも大切でしょうが、ソフト面のまちづくりこそ、求められる時代に入っているような気がします。私たち市民同士も互いに連帯して意識の切り替えを図っていかないと、いよいよ高齢社会は待ったなしです。

少子・高齢・人口減社会が私たちの暮らしに現実的な課題を突きつける時期になってきます。来年から団塊の世代の60歳突入がスタートします。私自身も今年65歳、介護保険料を支払う当事者の仲間入りをする年齢に突入します。シーズネットの活動も会員同士手を携えてマンネリに陥ることなく、これからも地域を見続け、そこに発生するニーズと向き合って、それを解決する仕組みづくりに挑戦していきましょう!

「健康と生きがい」

(通信2006-02月号から)

もし、あなたがパークゴルフ大好き人間だった、と仮定して、パークゴルフと健康との関係で次のどちらの考えが正しいと思いますか?

①これからの老後は何といっても健康だ。その健康を守るために私はパークゴルフを続けたい。

②私はパークゴルフが大好きだ、いつまでもパークゴルフを続けるために健康であり続けたい。

今回の介護保険制度改訂のポイントの一つは介護予防ですが、その背景にあるのは、これからの老後は依存型ではなく、生きがいや生きる目標など自己実現のための活動の必要性が不可欠な現実です。要は抽象的ですが生きがい活動をすることにより、身体機能が低下しても「やる気」を持ってリハビリに取り組み、その生きがい活動に復帰する強い意欲を持つと考えられるからです。

介護予防の権威と言われる東北大学の辻教授の分析では、わが国の高齢者は健康寿命は高いのに、一旦心身機能が低下すると、要介護の進み具合が早いとか・・・。例えば80歳を過ぎて身体機能が低下すると加齢のせいにして自立意欲を喪失し、廃用性症候群に陥るとか!介護予防はその悪循環を断ち切ることに大きな狙いがあると聞きました。

さて、冒頭の2つの考えですが、当然正しい考えは②即ち、生きがいはパークゴルフ、それをいつまでも続けるために健康であり続けたいという思考です。だから虚弱になっても意欲的にリハビリ(介護予防)に励むことができる筈です。しかし、①だと健康が目的化されているため、一旦虚弱になると精神的にガクッときてしまう傾向があります。

これからの高齢期の暮らしでは、健康な体で何をしたいのか、という発想ではないでしょうか。そのキーワードとしてシーズネットが提唱しているのが、「仲間づくり」と「役割づくり」と言えます。介護保険の制度改定をキッカケにして、もう一度シニア人生の暮らしについて考えて見たいものです。

「出会いと別れと」

(通信2006-03月号から)

「人と出会うことは、その前提として何時の日か別れがあることを覚悟しなければならない」という意味の言葉を、多感な青春時代に何かの本で読んで、ショックを受けたことを思い出します。私たちシーズネットが仲間づくりという言葉をキーワードにした活動を開始して4~5年になります。そしてつい最近も設立当初からいろいろな面で活動を続けて下さったある会員の方が、人間関係のこじれがキッカケで退会を宣言され、厳しい表情でシーズネットを去られました。

シニア人生の人間関係、特にヨコ社会の人間関係の難しさについては薄々感じていましたので、シーズネットでは多様な選択肢をつくり、あるグループで人間関係のトラブルがあったとしても、他の活動に切り換えることによってグループは去ったとしても、シーズネットそのものを退会することはない、と思っていました。ところが現実は、会員同士の人間関係のトラブルが即退会につながっていることに気づきました。

顔を合わせなくても、結局は他の会員との関係もあってシーズネットに残ることは心が許さない、ようです。う~ん、これは難しい!人が集れば、そこにさまざまな人間関係のトラブルが発生することは古今東西どこにでもあることですが、私たちは肩書きのない老後という時代を豊かに生きるための「仲間づくり」が自らの人生にとって煩わしい存在になり、「ほどほどに」「遠からず、近からず」「つかず、離れず」と言った日本人特有のファジーな関係に納めることによってのみ、人間関係の持続が可能なのかも知れません。ヨコ社会が原則の市民活動団体では代表者の交代や構成員の動きの背景に必ず人間関係のこじれがある、と聞きます。

プライベートな個人と他人と共有する個人のケジメを上手に使い分けるような人と人との結びつき方はないのでしょうか?結局、人の一生とは、他者との出会いと別れの繰り返しの過程なのでしょうか?

団塊の世代のみなさんへ

(通信2006-04月号から)

年代別人口の中の大きなコブと呼ばれる団塊の世代が大きな注目を浴びています。総勢700万人、全人口の5.3%を占める巨大な存在がいよいよ定年を迎え、多額(?)の退職金を手にして、また厚生年金受給者として長い老後の暮らしに突入するのです。企業だけではなく各自治体も、その存在を消費マーケットとしての競争が既にはじまっています。でも、待てよ!と叫びたいのです。消費マーケットの対象としてチヤホヤされるのではなく、これから訪れる長い老後の暮らし方を考えるサービス供給者としての立場で考え、新たなサービスに取り組みませんか!と・・・。団塊の世代の方々は多分「親の介護を考える最後の世代になり、子供に面倒を見てもらえない最初の世代」になる筈です。他方社会保障は厳しくなり、行政依存から自己責任の生き方を確立しなければなりません。具体的に提案すると団塊の世代の方々の老後は

①成人の家族関係が依存関係から自立関係に変わる、

②地域社会はタテ型からヨコ型に変わる、

③行政依存ではなく、行政を動かすオピニオンリーダーが市民に求められてくる、

時代に突入する筈です。そのような新たな価値観を持った時代を豊かに、安心して生きる生き方を私たちの手で獲得しなければならないのです。既存のサービスでは賄い切れなくなった昨今、新たな価値観を創造することが私たち中高年に求められている社会的役割であることは間違いありません。その新たなサービスこそが、これからのコミュニティビジネスであり、私たちの就労の場として位置づける必要があります。現役世代のように仕事は与えられるものではなく、新たなレールづくりからはじめなければならないのです。そこにこそ、私たちの生きがい、豊かな老後、助け合う人間関係などが自然に出来上がり、新たなグランドデザインが描かれる筈です。

シーズネット活動はそのような視点で50代~80代のみなさんが協働してそれぞれの地域社会に新しいレールを引く努力を積み重ねるつもりです。団塊の世代のみなさん、そのような仲間に入って、一緒に汗を流しませんか?

「ちびまる子ちゃん」と家庭像

(通信2006-05月号から)

フジテレビ系で放映中の人気アニメ「ちびまる子ちゃん」をご覧になったことがありますか?小学校3年生のちびまる子ちゃんを主人公に両親、そして祖父母の3世代同居家族を明るく、ほのぼのと描いたアニメのホームドラマですが、4月から実写ドラマ化がはじまった人気アニメです。

静岡県清水市を舞台に、小学校3年生のちびまる子ちゃんには小学校6年生のお姉ちゃんもいますが、ホームページで祖父母の年齢を確認すると、ちびまる子ちゃんと大の仲良しの友蔵じいさんは76歳と書かれていました。うん?76歳の祖父母と9歳の孫?そんな家庭がどれだけあるのかな?世間一般には70歳代半ばの祖父母と言えば高校生以上が大半ではないでしょうか?あなたの周辺の祖父母と孫の年齢差は如何ですか?もう一つびっくりしたことは、ちびまる子ちゃんのおねえちゃんは西條秀樹とにしきのあきらの大ファンと書かれており、現実的にはかなり時代錯誤の作品のように思えてきました。

どうもあの人気アニメに描かれている3世代の同居の家庭像は、わが国では昭和50年代までの、人生50年時代のホームドラマではないのか?という印象です。ちびまる子ちゃんがスタートしたのが今から16年前の1990年。その年はバブル経済が弾け、戦後最大の不況が襲った年だったのです。外国ではイラクがクエートに侵攻してイラク戦争の前哨戦ともいうべき出来事もありました。

年齢、状況は当時のままのようですが・・・。そのような世相を背景に明るい家庭像を描くことによって心の不安を払拭しょうとした意図があったのかどうかわかりませんが、私たちは過去の郷愁に浸るのではなく、やはり現実を見据えた生き方をつくることが大切なことではないかと思います。そのような背景を抜きに考えれば、確かにちびまる子ちゃんは見ている者をほのぼのとさせるアニメで、ボク自身毎週見ていることを告白しなければなりませんが・・・。

煩わしさと淋しさと・・・

(通信2006-06月号から)

かつて東京の財団法人さわやか福祉財団の堀田力理事長(元ロッキード事件の検事)がシニア人生にとって「煩わしさと淋しさ」あなたはどちらを選びますか?と問いかけておられたことを時々思い出します。子育ても仕事人生も終わり、家族もそれぞれの道を選ぶようになった現代社会で、長いシニア人生をどう歩むかが大きなテーマになっています。かつてのシニア人生は孫の面倒を見ながら家庭内でそれなりの役目を果たすことによって、それなりの存在感を示すことができていましたが、今日では趣味に生きる、人との交流に生きる、ボランティア活動など地域活動に参加する、など多様な試みが行われるようになってきましたが、気になるのは「人と交流する大切さはわかるが、あまりにも価値観が違いすぎてストレスになり、そのような煩わしさは避けたい」と思っているシニア層が意外と多いことです。

特にサラリーマンOBの場合は現役世代は会社組織の縛りの中で、煩わしい人間関係に長い間耐えてきた人が多いだけに、定年後は開放されたい、との想いも強い傾向にあります。自分の畑を耕す、釣りなどの趣味を楽しむ、囲碁や麻雀三昧の日々を送る、など自己の枠に閉じこもった暮らしをしておられますが、そこには人との交わりはありません。また各種の生涯学習や老人大学などを渡り歩いて日々を送っておられる方も多いようですが、それらの場は知識を身につけるより、暇な時間つぶしにその本質が潜んでいるようです。

そのような暮らしに訪れるのが、孤独感による淋しさ、です。人間は本来社会的な動物ですから、人との集団で暮らしを営むのが本来の生き方だと思います。家族内や近隣関係の人間関係づくりが難しくなってきた今日、新たな他者との交わりをどうつくり、長いシニア人生の糧にするのか、私たちシーズネットの活動はその試行錯誤をしながら、新しい人間関係づくりの社会的な学習をしているのではないか、と感ずる今日この頃です。逃避からは新たな価値観は生れません。煩わしさの中から豊かさを求める以外に解決への道筋はないのです。

シニア時代を生きる原点

(通信2006-07月号から)

藤原正彦氏著「国家の品格」を読み終わって、30年以上前のある光景が自然と浮かんできました。信州真田町でかりがね学園という知的障害者の園長をしていた頃の話です。5月の中旬、かりがね学園の周辺は桃の花が咲き乱れていました。その桃の花を指差しながら30代のある男性の入居者が、母ちゃん死んじゃった、母ちゃん死んじゃった、と呟いています。うん?どうしたの?と聞きますが、彼は同じ言葉を繰り返すだけです。後日ご家族の方にその話をすると、母親が亡くなった時周囲には桃の花が咲いており、彼は母の死が何月何日という具体的な認識はできませんが、桃の花と母親の死がつながっているのでは・・・ということでした。

その言葉を聞いた時、何か心が打たれる感動を覚えたことを思い出したのです。そのことと読み終えたばかりの「国家の品格」の内容が重なるのかどうかはわかりませんが、何か自分の過去の人生で培っていた大切なものを、いつの間にか捨て去ったのでないかという想いです。NPO活動にもお金が必要だ、という言葉はよく聞きます。そして私たちの活動の要になっている事務局業務を遂行するために毎日出勤して来られる会員の方たちが無償の行為であることを知った他の会員や外部の方々の多くは、そのような大切な仕事をボランティアですることはおかしい、シーズネットも将来性はない、と仰います。今の時代は全てをお金に換算することが価値基準になっているのでしょうか?

では、無償の行為とは何でしょうか?最近、そんなことを考えることが時々ありましたが、その背景に戦後の経済至上主義的な価値観が急速にわが国に浸透してきている現実を思い知らされました。「お金が全て」の時代を、現役を退いたシニア層はどう生きれば良いのでしょうか?経済的には恵まれなかったけれど、将来を夢見ながら必死に生きてきた若かりし頃の生き様を伝えることこそ私たちの役割なのでしょうか?経済的には恵まれてはいませんでしたが、山の頂きに立った感動、貧しい友との友情、大人たちを喜ばせた子ども会での演芸会など、心や人を揺り動かせた思い出話など、捨て去ったものを拾う作業から始めたいものです。

政治と暮らし

(通信2006-08月号から)

今回は一寸固い政治と暮らしをテーマにしましたが、その背景にはご存知の通り高齢者を取り巻く経済環境がますます厳しくなっていることがあります。特に各種諸税の値上がり、介護保険や医療保険など社会保障の負担増の反面、介護や医療の利用の制限や自己負担増など相次ぐパンチを浴びて「年寄りは早く死ね、ということだね」との言葉を度々耳にするようになったことです。来年は更に負担が増えるとか・・・。

本来、政治は国民の安心・安全を守るために存在するのに、現状は政治を守るために国民が犠牲になっているような感覚に陥ってしまいます。少子・高齢・人口減という大きな環境の変化は理解できます。わかりやすく表現すればわが国の人口形態はピラミッド社会から逆ピラミッド社会へ激変しょうとしており、その変化に対応するための「改革」が必要なことは言うまでもありません。しかし改革とは部分的な修正ではなく、根本的な仕組みの変更でなければならない筈なのに、今の制度改革は現状の部分修正に過ぎず、その先が見えないことが特に高齢者からの不満が渦巻いている要因ではないかと感じます。どこまで負担が増えるのか、そして負担は増えるのにどこまでサービスは低下していくのか、政治は教えてくれません。

ピラミッドから逆ピラミッドに変わるのに年金は依然賦課方式のままで、それでは近い将来成り立たないことは誰でもわかっている筈です。それにも関わらずその場その場の対応に終始しているのが、今の改革ではないでしょうか?高齢者の多くの方々も人口形態の変化によって負担増は覚悟しなければならないと思っていると感じています。そして、負担増の先に新しい時代の展望が開け、政治は高齢社会の安心・安全をこのような仕組みで守ってくれるのだ、という見通しが実感できれば、希望が沸いてくる社会が訪れると思います。政治とはその見通しを国民に示すことではないでしょうか?ましてや、国の未来を考えないで、自らの既得権益のみを守ろうとする姿勢があるとすれば、国は滅亡するでしょう。国を司り、税の負担増や介護や医療の利用料の決定権を持っておられる政治家の方々は、国民への負担増に対して自らの痛みをどのように国民の前に明示されようとしているのか、についても私たちは凝視したいものです。

ボランティアという言葉

(通信2006-09月号から)

本来、今の地域社会にはボランタリィな活動が最も必要な時期だと思いますが、反面未だにボランティアという言葉の裏には「可哀想な人、気の毒な人を助けてあげる」という弱者救済・貧困救済時代の福祉理念が潜んでおり、最近は意図的にボランティアという言葉を使わないようにしています。もう一つは無償性。シーズネットでよく聞くのは、事務局業務に従事している会員さんに対して、「そんな責任ある仕事をボランティアでしているの」という驚きの声。あたかもボランティアの場合は自分の都合で参加の是否が決められ、責任を持たないもの、という概念がつきまとっているようです。

介護保険制度の導入が契機になって福祉の理念が「保護救済」から「自立支援」に変わりましたが、福祉ボランティアの分野ではまだまだ意識の切り替えができないまま活動されている方が多いようです。具体的にどう違うのか?図式化してみました。<保護救済時代のボランティア>弱者救済=タテ関係=相手を助ける=自分本位=提供側の論理<自立支援時代のボランティア>自立支援=ヨコ関係=自己の成長のため=利用者主体=利用者側の論理と比較することができると思います。ボランティアの方にそのような図式を示すと、私たちは相互支援ですからヨコ関係です、と仰いますが、それでは将来必要なときには提供側ではなく、利用者側即ちボランティアを受け入れますか?と聞くと、大抵のボランティアは「いや、私は結構です」と応えられます。

ボランティアをするのは良いが、ボランティアを受け入れるのは嫌だ、という考えは、やはり根っこはタテ関係で捉えているからではないでしょうか。無償性の問題にしても、無償の行為を全てボランティアという概念で安易に片付ける傾向があります。しかも無償=無責任でも構わない、という考えは、ボランティアの概念からは程遠いものです。福祉の自立は契約制、利用者主体が基本にあります。そのような福祉の時代のボランティアの概念、あり方を再検証する必要性を痛感していますが、如何でしょうか?

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