↑ Return to 豊寿語録

Print this 固定ページ

豊寿語録 -2005

岩見太市遺稿集『豊寿語録』-2005-

岩見太市

少子高齢社会の新たなシニア人生の生き方、考え方・・・・
さまざまなシニア人生を取り巻くドラマを、皆様と一緒に考えたいエッセーです。ご意見・ご感想をお待ちしています。

1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月

会員の想いをパワーに

(通信2005-01月号から)

新年明けましておめでとうございます。

それぞれの新年、如何お迎えでしょうか?私たちシーズネットの活動は早くも5年目を迎えることになり、さあ、今年はどのような重点目標が必要なのか、改めて考えました。

昨年11月札幌で、設立以来はじめて社会参加活動への想いを持っておられる8名の会員の方と、それぞれの想いとそれを実現するための企画や 地域ネットワークについて本音の議論をする機会がありました。助け合い活動を充実させたい、新たなサロンをつくりたい、企業と提携して何かやりたい、自然の中で作物をつくる喜びを味わいたい、シニア向けのエアロビクスをやりたい、などさまざまな想いが吹き出てきました。誰かの役に立ちたい、社会に向かって何かやりたい、わが人生を何かのために燃焼させたい、など自己実現の欲求を持っておられる方は多いと思います。ただ、残念ながらひとりでの想いだけでは成功は困難であり、やはり仲間集めや地域PR、地域ネットワークなどを欠かすことができません。そのような熱い議論を 聞きながら感じました。

「シーズネットは会員個々の想いや自己実現の欲求を、会員ネットワークの中で実現に導き、個の想いをシニア全体のパワーに転化する ことではないか!」と・・・。何かを手伝いたいと思っておられる方は大勢おられますが、自ら進んで何かをやりたいと思っておられ方は少ないのが現実です。「何かをやりたい人」と「手伝い人」を結びつけ、一つ一つの集団やグループをシーズネット活動のネットワークに入って頂くことによって、私たちの活動が 大きなパワーとなって地域や社会を動かす原動力になるのではないか、そのような想いで新年を迎えました。

皆様にとって2005年が楽しく、明るい年になりますように・・・!

シニアの移住誘致の条件

(通信2005-02月号から)

新年の新聞を見ていると、いよいよ団塊の世代が定年退職を迎える 来年度以降の地域のあり方についての紙面が賑やかになってきています。それぞれの地域で、団塊の世代を誘致して、その預貯金と年金を当て込んだ経済の活性化を目論む企画も考えられているようです。自分なりにシニア人生を豊かに過ごすための条件について、改めて考えたいものです。誘致する立場として団塊の世代を消費対象者として見るのではなく、あくまで当事者の立場から考えたいと思います。勿論生活の安価さは大切な一つの要件には違いありませんが、次の2つが大きなキーワードになると思っています。

①地域における人間関係づくり

馴染みのない土地に移住して、まず不安なのは地域の人々との人間関係づくりです。いくら利便性があっても、自然環境に恵まれていても、そこに人間関係がないと結局孤立した暮らしになり、短期間の暮らしはあっても安心できるシニア人生にはなり得ません。北海道では白老や伊達に移住するシニア層が多いと聞いていますが、ある程度生活体験を重ねると再び元の居住地に移住するケースも多いと聞きます。移住してきた人々を暖かく迎え入れる地域の合意こそ、何よりもまして不可欠な条件ではないでしょうか。

②安心できる終末期の暮らし

シニア人生にとって欠かせないのは健康課題であり、何かあったときの地域の連帯意識です。都市社会のような保健・医療・福祉までなくても、心身機能が低下しても安心して住み続けられる基盤整備と地域の連帯感こそ必要ではないでしょうか。シニア層の移住は家族との別れも覚悟しての移住です。家族に代わる安心感を地域社会の中に確立されてこそ、堂々とシニアの移住を呼びかけることができると思っています。あなたの地域では、ひとり暮らしで虚弱になっても、安心して住み続けられますか!?

シニアの恋

(通信2005-03月号から)

「シーズネットの活動はとても楽しいのですが、 その反動が帰ってから表れて寂しさが倍増するのです・・・。どうすれば、良いのでしょうか?」あるひとり暮らしの女性会員の声。親しいひとり暮らしの会員同士が、夜の時間帯にお互いに電話をし合ってコミュニケーションをはかっている、という話もよく聞きます。

もともとわが国は家族制度がしっかりしていて、家族間の相互扶助が暮らしを支えてきた歴史が続いていましたが、戦後の高度経済成長や少子高齢化の急速な波で核家族化が進み、これからの時代は「人生、最後はひとり暮らし」が当たり前の時代に突入しつつあります。特に若い世代と違って高齢期は加齢に伴う身体機能の低下や生活習慣病の発症も起こってきますので、そのような時代のシニア人生の新たなライフスタイルづくりが急がれていることは言うまでもありません。

私たち、シーズネットの設立趣旨も、その点に着眼しています。そのような流れの中で、今後シニア生活の充実感のひとつのポイントが シニア人生における恋ではないかと思います。恋愛は若者の特権ではなく、豊かな人生と異性への恋は大きな関係があるように感じます。地域社会ではまだまだ高齢期の恋愛を「年寄りのくせに!」「嫌らしい」という言葉で排除する傾向が残っているようですが、シーズネットは高齢期の恋も自然に受容できるようなコミュニティづくりの一助も担うことが大切ではないかと思います。結婚、同棲、通い妻、通い夫・・・ 形態はいろいろあるでしょうが、そのようなカップルが誕生した場合に、せめてそっと暖かく見守るような雰囲気も育てたいものです。

自己は他者の中にあり

(通信2005-04月号から)

私たちシーズネットの活動 もいよいよ5年目。一つの節目を迎える大切な年になりそうです。

趣味その他さまざまなグループ活動を通じてシニア人生を豊かに過ごすための人間関係づくりに力を入れてきましたが、その分野に加えて幅広い市民層も巻き込んだ社会参加活動の軸足も固めることによって「仲間づくり」と「役割づくり」の両輪を確立することだと認識しています。

それらの活動には団塊の世代を中心とした50代のシニア層を私たちの活動の中にしっかりと位置づけること、そして行き場のない同じ世代のシニア層が気軽に参加できるような企画を立てて、周知していくことではないかと考えています。

シニア世代の自立意欲を高めるには、積極的な生き方があってこそ、可能になることは言うまでもありません。

「体が健康でも何もすることはない」という人生では病弱や虚弱になったとき、リハビリをしてもう一度健康な自分を取り戻したい、という強い意欲は沸いてきません。自己という存在感が仲間たちや地域、社会の中で認知されてこそ、A・マズローの欲求の5段階である自己実現の欲求に近づくような気がします。

「自己は他者の中にあり」の生き方ではないでしょうか。前期高齢期は人間関係をベースにして社会に関わる活動を継続し、後期高齢期はゆったりと良きお友だちとの交流と気軽な趣味を楽しむ。そして、虚弱になったら、周囲の人々に素直にSOSを発信して助けて、と言い合えるような環境づくり・・・ そんなシニア人生が浮かびつつあります。

男と女のシニア人生の実践意識

(通信2005-05月号から)

~シーズネット三重の市民アンケート結果に想う~

昨年12月から今年1月にかけてシーズネット 三重が四日市市からの助成金で実施した「シニア世代の男と女の生き方アンケート」の結果がまとまり、その報告書が送られてきました。四日市市内に 居住する50代~70代1000名の内、回答のあった344名(回収率34.4%)のアンケート結果をまとめたものです。回答者の男女比は 45.2%.54.8%でした。

☆家庭内の暮らしについて回答者の内単身、老夫婦世帯が51.7%、子供や孫との同居世帯が9.1%という結果を見ると全国的にシニア生活 と子供たちとの生活は別居形態になっていることは明白ですが、にも拘らず家事を夫婦で分担している家庭は22.9%に過ぎず、「女性が主で男性はそれを助ける立場」での位置づけで、主体は女性、男性は補完的な位置づけになっています。介護に関しては女性がヘルパーなど人の助けを借りることに主眼を置いているのに、男性は「配偶者にしてほしい」(84.6%)希望者が依然として圧倒的多数になっています。

☆地域関係について社会や地域との関わりについては「趣味」のウエイトが男女を問わず高い結果になっていますが、全体的に女性の方が地域において 幅広い活動をしていることが伺えます。地域におけるお付き合いでは男女格差が顕著で、①友人は男性46名・女性65名、②仕事関係は男性29名・女性11名、③親戚関係は男性16名・女性23名という結果になっているが、いずれにしても女性の方が積極的である。まだまだ古い価値観がシニア男性を支配している現実が裏打ちされたような結果だが、そこに幸せが待っているのかどうか、しっかり検証する必要があると痛感しています。

最期の迎え方

(通信2005-06月号から)

新聞報道によると、最近引き取り手のいない遺骨が増えており(札幌の場合、04年度で84柱)、その背景に家庭崩壊やひとり暮らしの高齢者の増加がある、という記事を読んで、いろいろ考えさせられました。シニアの生き方と同時に終末期の過ごし方や、どのような状態で死を迎えるか、という最期の迎え方も考えなければならない時代背景なのでしょうか。

家族制度がしっかりしていたわが国では、昭和30年代半ばまでは家庭の畳の上で大勢の家族に看取られながら息を引き取るのが自然な光景でしたが、その後次第に病院死が増加して、今日では大半の人々が病院のベットの上で臨終を迎える方が増えています。それでもベットの周りには看取る家族の存在があるのが一般的な光景のようです。自分の家庭から病院に変わり、大勢の家族から少ない家族に変わっていますが、人生最期は家族に看取られ ながら息を引き取るのが、自然な最期だと思っていました。

しかし、家族関係の変化や少子化など生活環境の変化によって、最近は孤独死の増加や家族関係 の希薄化が及ぼす別居形態が急激に増加する中で、シニア人生の最期をどのような形で迎えるかも、大きな課題になりつつあるような気がします。新しい時代の理想的な最期の迎え方はどのような光景なのでしょうか?「畳の上で大勢の家族に看取られながら人生を終える」今までの光景から、新たな理想形を描く時期に来ているような気がするのですが・・・。  

「出入り自由」の背景にあるもの

(通信2005-07月号から)

シーズネット活動の会員メリットの、ひとつにさまざまなグループ活動への参加は拘束されるものではなく、参加するか、しないか、は自由であり、自分にあったグループがない場合は自分が呼びかけ人になって立ち上げることができる、ことにあります。その点が地域にあるさまざまな趣味グループなどと差別化していることは間違いありません。ただ、その「出入り自由」の考え方は参加する側にとっては大きなメリットですが、そのグループの立ち上げを呼びかけた会員さんにとっては絶えず不安な状態に置かれることになります。

月1回の定例会の準備をしても、蓋を開けないと誰が参加してくれるのか、何人集まってくれるのかわからない 、不安定な気持ちになるからです。その結果、グループ活動の内容を見ても、その場、その場だけで対応できる歩こう会や健康志向型の活動は活発ですが、日々研鑽して技術や知識を高める文 科系サークルが少ない傾向が顕著になってきました。そのような現象をみて、「出入り自由」の言葉を裏側から解釈すると「無責任」になってしまうことに気づきました。

主体的にグループを立ち上げた世話人の立場も考えて、そのグループを積極的に育てて行こうという前向きな視点も持っていかないと、「出入り自由」という参加する側の意図だけでは、「わがまま」になってしまうことを危惧します。「出入り自由」という言葉の背景には同じ会員として互いに自主性を尊重し合うと同時に、相手を思いやる心も必要になってくるのではないでしょうか。その意味で自己を拘束したり、個人として責任ある態度を持つことも大切になることを、最近痛感するようになりました。

高齢期の暮らし・京都と札幌

(通信2005-08月号から)

今年90歳になる京都の実家の母親が介護保険の認定申請をした結果、要介護3という中程度の介護結果になりました。しかし、本人の自立意欲は旺盛で、左足の関節の痛みで歩行困難にも関わらず、通院や墓参などの外出は妹の付き添いでシルバーカーを押しながら歩いています。室内も杖で歩き、床に座ってキャベツのキザミなども自分でしています。

周囲に迷惑をかけたくないというモチベーションの高さが中介護状態でありながら、在宅での暮らしを可能にしているように思えます。そのような様子を見ながら、フッと京都の街中(主として上京区内ですが)を歩いていて、車椅子ではなく杖やシルバーカーで街中を 歩いておられる高齢者の方々が多いことに気づきました。杖歩行でバスに乗る高齢者も多く、ノンステップバスが増えていることも、そのような高齢者の外出を支援しているようです。

他方、札幌の街中を歩いていると、車椅子の介助を受けながら外出しておられる高齢者の方々は散見されますが、杖歩行やシルバーカーを自力で押して外出されておられる光景に出くわすことは殆どありません。歩道や車道を見ても、そのような外出を阻害する要因がいくつかあるようです。札幌ではそのような方々はどのような暮らしをされているのでしょうか・・・?

車で移動、外出されているのか、施設に入っておられるのか、もしくは家に閉じこもっておられるのか・・・?いよいよわが国も本格的な高齢社会。それぞれの地域で、どのような視点でのまちづくりをするか、具体的に考える時期に来ているようです。介護予防が叫ばれていますが、そのための環境整備をキチッとしないと絵に描いた餅になってしまうことを危惧します。札幌と京都、どちらが高齢者にとって豊かな老後を過ごせるマチになるのでしょうか?

自己規制のある暮らし

(通信2005-09月号から)

5月~7月まで毎週1回北海道医療大学の非常勤講師を務めましたが、校舎の4階にある教室まで歩いて通いました。ところが教室に辿り着くと息がハーハーして息切れ状態になりしばらく休息しないと喋れません。来年65歳になる小生にとって運動不足を思い知らされました。普段の日常の暮らしだけでは運動不足が明白になったため、意図的な運動の導入を考え、1週間の内5日以上1日1万歩以上歩くことに目標を設定して、約1ケ月半の間、何とか実行しています。

それを実現するために、日常の暮らしの中で自分で決めたことは・・・①エレベーター、エスカレーターは使わない ②時間の許す限り短距離は歩行で移動する ③夕方までに1万歩に満たない場合は夕方、或いは夜間に不足分を歩いてカバーする という自己規制をしました。その結果、やや高かった血圧は正常値に戻り、体も軽くなったような気分になっていますが、半面で疲労からくる眠気に襲われたり、気分が乗らなくて中断したい欲求に駆られることもあります。それでも決めた以上多少辛くても実行することにより、老化現象を遅らせることができるのではないかと、自分なりに意欲を喚起させています。

今の課題は長い冬場をどうカバーするか?です。シニア生活はとかく社会や他者との関係が途絶してしまう結果、その日の気分による暮らしが中心になり、義務づけられたり、規制されることを避ける傾向にあります。特に社会的活動はその意味で敬遠され勝ちです。しかし、人間としての暮らしを考えた場合、自己を規制して行動し続けるような環境も作っていかないと、張り合いのある暮らしはないように思います。老化現象はそのような自分で決めたことを勝手な理由づけで破棄することからはじまります。お互い、暮らしの中で何か拘束される部分を自己規制でつくり、それを実行し続けるような生き方をつくりませんか!

もし、あなたが認知症になったら・・・?

(通信2005-10月号から)

もし、あなたが認知症(痴呆症)になったら、どこで暮らしたいですか?本人に判断能力がなくなり、勿論本人が認知症になっていることを自覚できない状態だとすれば・・・。

シーズネットの会員の方に何人かお聞きすると、「是非病院に入れてほしい」「介護保険施設か グループホームに入れてほしい」との意思表示をされる方が大半で、「それでも自宅で過ごしたい」と希望される方は殆どおられませんでした。厚生労働省では来年度から認知症になっても安心して地域で暮らせるようなまちづくりを推進するために、財団法人さわやか福祉財団の 堀田力理事長を中心にNPO法人地域ケア政策ネットワークを東京に設立して「認知症サポーター100万人キャラバン推進チーム」をつくり、活動を開始しました。過日札幌市内で全国初のサポーターを養成し、地域のネットワークづくりを推進するリーダー格となるべき認知症 キャラバン・メイトの養成研修があり、私も講師のひとりとして「住民講座の展開方法」について170名の受講者の方々とこれからの具体的な展開方法について考える場を持つことができました。

全国的に少子高齢化が進み、人口減社会が到来する中で、それぞれの地域社会をどう再生し、家族や市町村に依存するだけではなく、市民同士が連帯して助け合う共助のコミュニティづくりが欠かせないことは言うまでもありません。しかし、それにはまず市民意識をどう切り換え、認知症になっても住み慣れた地域社会で過ごしたい、という地域環境や風土づくりをしていかないと、サポーターの活動も絵に描いた餅に過ぎなくなってしまうような気がします。

サポーターの養成と同時に、冒頭に書かせて頂きましたように、私は認知症になってもグループホームや介護保険施設に入らないで、この住み慣れた地域の中で生き続けたい、と言えるような環境づくりを念頭に置いて、キャラバン・メイトのひとりとして地域と向き合いたいと思います。あなたも認知症サポーターとして登録して、そのような活動に関わりませんか?

マンションでのシニアライフ

(通信2005-11月号から)

北海道マンション管理組合連合会主催の研修会で「マンションでの豊かなシニアライフについて」話す機会を頂き、これからのマンション管理組合の仕事は建物管理や積立金の運用などハード面だけではなく、入居者のサポートなどソフトの組立ても大きな課題になってくることを提起させて頂きました。今、全国的に戸建て住宅からマンションへの住み替え現象が起こっており、札幌でも札幌駅の北口ではマンションラッシュになっています。老夫婦やひとり暮らし高齢者になると機能的な構造で交通、買物、通院に便利なまち中に住みたい要望も多いようです。

京都ではマンション規制がはじまったようですが、それでも空き地には小さな集合住宅が林立して、町の景観を大きく変える要因になっています。ひとり暮らしでも元気な時は確かに気楽で、機能的なマンションライフは誰に束縛されることもなく、自由を満喫できる暮らしの場になるでしょうが、加齢により虚弱や要介護になった時はどうするのか、との問いに対する回答はありません。

札幌市が実施した高齢社会の高齢者自身の意識アンケートでは、体が弱くなった時は食事など生活をサポートしてくれる 仕組みのある住まいへの移住を考える比率が高くなっています。そのような意識のあることをマンション管理組合も考慮に入れた運営を考えないと、築30年以上のマンションになると空き室が目立つようになる危険性をはらんでいるように感じます。

シーズネットではそのような傾向に着眼して、マンション管理組合と連携してひとり暮らしでも安心してマンションライフが楽しめるような安心ネットワーク事業(仮称)への取り組み企画を考えています。ひとり暮らしのマンション住人に対して電話、相談、訪問の3事業を中心にして安否の確認やコミュニケーションなどを行うことを主眼にしたいと考えています。マンションライフを豊かに、安心できる住まいにするために、その方策を一緒に考えませんか!?

会話のない日々

(通信2005-12月号から)

ひとり暮らしの男性のある会員の方が興味深い話をして下さいました。私はパソコンが大好きですが、身体を動かすことがないので畑仕事や町中の散歩、老人大学の聴講、天気の良い日は魚釣りなど外出の機会をつくって結構忙しい日々を送っていました・・・。ところが、ある日ハッと気づいたのです。その忙しい日々の中で、人と会話をすることが全くない自分に・・・」その時の会話は確かに部分的に呂律が回らなかったり、しどろもどろな話し方だったり、不自然な感じがしていました。

その話を聞いたとき、以前民生委員がひとり暮らしの高齢者宅を訪問したときに、その方の会話があまりにも呂律が回らない状態だったので民生委員は受診を進め、通院していろんな検査をしたが異常はなく、結局10日間程誰ともしゃべっていないのが原因だったという話を聞いたことを思い出しました。人間は通常会話という他者とのコミュニケーションツールを通じて相手を理解し、自己を表現する動物で、そのような行為を通じて脳を活性化させる働きをしているため、独り言や歌を歌ったりする単なる声を出す行為とは別の働きをするものだと思います。

認知症の予防は勿論、豊かな暮らしのために「他者との会話」は欠かせない行為だと思います。かつてのわが国のように家族関係も維持されて多世代が同居し、地域社会の人間関係も濃密だった時代には、会話のない日常生活はあり得なかったのですが、今日のように全てが機械化されて買物にも会話が不要になり、家族関係も核家族化で高齢期は単身或いは老夫婦のみ、更に近隣の人間関係も希薄になれば、暮らしの中に会話が求められる必然性もなくなってしまいます。他人とおしゃべりをしなくても、日常の暮らしに不便を感じない要素はますます少子・高齢社会の到来によって増えてくるものと思われます。

今私たちは日々の暮らしの中で、意図的に会話やおしゃべりの「場づくり」や「工夫づくり」が求められる時代に突入したようです。同時に私たち自身にも、積極的に人と話す努力が大切になってきました。いよいよ冬到来。寒くなれば、どうしても家に閉じこもる時間が長くなりそうですが、人とのおしゃべりを求めて外へ出ませんか!今年の回顧、来年の抱負を語り合いましょう。

Permanent link to this article: http://www.seedsnet.gr.jp/posthumous-papers/2005-2/