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豊寿語録 -2008

岩見太市遺稿集『豊寿語録』-2008-

岩見太市

少子高齢社会の新たなシニア人生の生き方、考え方・・・・
さまざまなシニア人生を取り巻くドラマを、皆様と一緒に考えたいエッセーです。ご意見・ご感想をお待ちしています。

1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月

心のお地蔵さん

(通信2008-1月号から)

札幌の場合は札幌駅周辺やビル街が中心ですが、京都の場合は西陣界隈の狭い京都の住宅街が中心になります。その格子戸がまだ残る西陣の住宅街を歩いていて絶えず目に留まるのが祠に収められた「お地蔵さん」です。

そのお地蔵さんは町内の当番が決まっているのか、どれもきれいに掃除され、周囲は掃き清められています。

お地蔵さんを見るたびに、子供の頃の地蔵盆祭りのことを思い出します。8月22日から24日頃の2日間(最近は直近の土日1日だけが多いようですが)舞台を組んでさまざまなイベントが開催され、僕たちの頃は演劇や歌謡ショーなど楽しい催しが一杯で、沢山のおやつも貰うことができました。圧巻はくじ引き。2階からざるに入った景品とくじ番号が降ろされ、その番号が発表されるたびにどよめきが起こったことを今でも思い出します。

何か悪いことをすると「お地蔵さんに叱られるよ」とか「お地蔵さんに見られているよ」と説教されたものです。

まさしくお地蔵さんの存在は京都の小地域(町内会)の精神的な基盤になっており、心の拠り所になっているのです。京都市内には5千体以上のお地蔵さんがあると言われています。

マンションはどうなっているか聞くと、お寺からお地蔵さんを借りて地蔵盆をしているとのことでした。地域には守り神や鎮守の杜と言った精神的な基盤の必要性を痛感するこの頃です。

地域のあり方を考える時、お地蔵さんに匹敵する心の支え、精神基盤をどうするかを中心に考える年にしたいものです。

老後の安心、3つのキーワード

(通信2008-2月号から)

孤立死ゼロ推進センターが動き始めて2ケ月が経過しました。過日のシンポジウムの雰囲気から市民の関心度の高さは実感しましたが、いよいよ来年度に向けて啓発啓蒙活動から一歩進めて、具体的なメニューづくりがこれからのテーマになります。孤立死を防ぎましょう、という啓発活動は今後とも継続していく必要がありますが、その目的は老後の安心を得るための活動でなければなりません。

「孤立死ゼロ推進センター」としての施策を考える場合のキーワードは以下の3点に絞って、札幌市と打合せマンション管理組合などとのモデル事業に取り組みたいと思っています。

  1. 交流を深めるための活動

    これからの老後の暮らしで一番大切な要素は人との交流です。家族も含めて人と人とが結びつくような日々の暮らしの組み立てが不可欠な時代になっています。サロン、趣味仲間など個人的な結びつきを社会的な関係に拡大できるような提言をしたいものです。

  2. 安否確認など仕組みづくり

    ひとり暮らし高齢者が急増する中で、その方が安心して暮らせるにはその安否をさりげなく見守りあえるような地域環境が必要になっています。本人からの申し出のある場合は勿論のこと、例え本人が見守りを拒否したとしても互いに意識し合う関係を継続して、異常があれば連絡できるような仕組みを工夫したいものです。

  3. 緊急などイザと言う時の対応

    上記2は周囲の人々の意識ですが、ひとり暮らし高齢者が在宅で倒れたり、急病になったりした時に、敏速に外部に通報する仕組みです。消防や警備保障会社への通報システムはありますが、共助の仕組みで解決できるようなシステムを開発したいと知恵を絞っています。

言葉を失くした3週間

(通信2008-3月号から)

毎年2月から3月下旬にかけては各地からの講演や研修依頼が多く、1年の中でもアチコチ動き回ることが多い時期です。しかも北海道内は積雪シーズンのため移動手段の多くはJRで、欠航の多い飛行機を利用することはできません。欠航によって講演がキャンセルになってしまい、相手に多大な迷惑をかけてしまうからです。マイカーも高速道路が吹雪でストップすることが多いため、天気予報を確認しないと要注意です。

さて、それらの仕事をこなしてホッとした丁度1年前の3月末のある日、突然声が出なくなり、かすれ声になってしまったのです。あわてて耳鼻咽喉科を受診すると声帯疲労で、声帯の酷使とストレスによる急性咽喉炎(声帯炎)との診断。ファイバースコープで見るとポリープはありませんでしたが、「声帯は赤く腫れており左右の声帯がキチッと閉じない状態になっています。とにかく喋らないことです」との医師の指示でした。

不幸中の幸いだったのは新年度当初は動きが少なく、講演、会議、研修なども少ないこと、ただ4月半ばからは大学の講義がはじまるのでのんびりはしておれませんでしたが・・・。

体自身は丈夫なので1日寝ることもできず、事務所に行くとどうしても話してしまうため、全く仕事にならず。思い切ってしばらく事務所通いを止めましたが、精神的にドンドン追い詰められていく感じでした。このまま言葉がでないままになってしまうのでは?という暗い心境!

最初は1週間位で話せるようになるとのことだったが2週目になってもしわがれ声のまま。毎朝起床と同時に声を出し、かすれ声を聞いてがっくり、という日々が続きました。

沈黙の努力と通院によるネプライザーの吸入によって、何とか部分的にまともな声が出るようになったのは発症して15日目辺りから。

言葉のない日々が如何に行き場をなくし、コミュニケーションをなくし、辛く苦しい日々かを実感しました。結果的には言語による暮らしの大切さを実感した貴重な体験にもなりました。加齢によって会話の機会も少なくなると言われていますが、会話のある日々と暮らしの充実感が関係していることを実感したものです。但し、カラオケが大好きで毎日歌いまくっておられる方々・・・気をつけて下さいよ。声帯を大事にすることをお忘れなく!

ウオーキングの功罪

(通信2008-4月号から)

2007年3月に札幌市保健福祉局が発行した「さっぽろの高齢者の姿」(高齢社会に関する意識調査報告書)概要版を見て考えさせられました。高齢期の活動についてのアンケート調査の結果に対してです。

介護保険で介護予防が叫ばれ、高齢期の暮らしで家の中に閉じこもらないで外に出るようにしましょう、という言葉はよく聞くようになり、このアンケートでも65歳以上の札幌市の高齢者の内3分2の方は週3日以上は外に出ている、という結果になっています。

さて、問題は外に出て、どのような活動をしていますか、という活動内容についてです。今取り組んでいる活動、そして取り組んでみたい活動も含めてそのベスト3は①ウォーキングや体操などの運動②パークゴルフやテニス、ダンスなどのスポーツ活③楽器や手芸、絵画などの文化活動になっており、トップがウォーキングという結果が出たことが気になったのです。

ウォーキングと言ってもその意味の取り方がさまざまで、健康を意識した足早のウォーキングばかりではなく、街中を散歩している高齢者の姿もウォーキングに該当します。札幌駅周辺や大通公園では高齢者が歩いている光景が随分増えたように感じますが、ぼくにはウォーキングと言うより、退屈な高齢者が目的もなく街の中心部をさまよっているような光景にも見えます。

そして、何よりウォーキングで気になるのは介護予防も含めて意識的に体を動かしていることは認めますが、パークゴルフなどのスポーツ活動や手芸などの文化活動との決定的な違いは会話の機会、即ちおしゃべりの場があるかどうか、の問題ではないかと思います。

街中や豊平川沿い、公園などを意図的なウォーキングをして健康意識が高いことは認めますが、その多くは誰ともおしゃべりをすることもなく一定のコースや時間のウォーキングが終われば自宅に戻られるケースも多いのではないでしょうか。

確かに家に閉じこもっているよりはマシかも知れませんが、外に出て大切なことは誰かと1日1回はおしゃべりをする場を意図的につくることこそ大切ではないかと思うのです。

女性の場合はあまりその心配はいりませんが、男性の場合は外に出ても一言の会話もなく家に戻られることも多いように感じます。他人とおしゃべりをしながらコミュニケーションを図ることも、介護予防に欠かせないことも自覚して外に出るよう心がけて頂きたいものです。

私たちの日常の暮らしの中で会話の場がドンドン減っている現実が気になっています。

職場・家庭・地域

(通信2008-5月号から)

ここ2~3年、国会で発議され、企業を中心に「ワークライフバランス」(仕事と生活の両立)という言葉を時折耳にするようになりました。私たちシーズネットでも昨年から財団法人さわやか福祉財団で行っている特別な休暇制度普及事業のお手伝いをさせて頂いていますが、ワークライフバランスを試行した企業のあり方を経営者協会や商工会議所と連携しながら進めることを主眼にしています。

ワークライフバランスという言葉は今一何のことなのかピンと来ませんが、いろいろ話を聞いていると企業側と従業員側の2つの側面からその必要性が言われるようになったように感じます。

まず企業側の事情から考えると、日本の職場では従業員が生活で困っていること、悩んでいることの第一位が仕事上のストレスになっており、仕事にやりがいを見出せない従業員が増えているようです。高度経済成長の時代は仕事オンリーでも成功できたようですが、今日のポスト工業化時代では、人間としてのバランス感覚がないと壊れてしまう時代になりストレスマネジメントが重視されるようになりました。

他方、従業員個々の立場では人間として生きていく上で大切な4つの領域(仕事・自分自身・人間関係・社会貢献)のバランスが欠かせないという状況からワークライフバランスなる言葉が登場したと言われています。(日本女子大人間社会学部大沢真知子教授)

そのような時代の流れを認識する中で、シニア人生にとってもワークライフバランスの必要性を痛感するようになりました。即ち現役世代と違って職場がなくなった時、家庭内に家族関係があった時代は家庭内に居場所がありましたが、昨今では定年後家庭に入ろうとしても居場所はなく、残る場所は地域しかないのです。

地域と言っても町内会を中心とした小地域、中学校区を中心とした中地域、さらに市町村単位の地域などそのエリアによってかなり異なりますが、最早現役時代は職場、定年後は家庭、という図式は成り立たなくなっています。

定年後の20~30年という長いシニア人生を見据えて職場・家庭・地域という3つの生きる「場」を現役世代から考慮した生き方が、まさにワークライフバランスではないでしようか!

人間としてバランス感覚を持ったシニア人生を送るには、その3つの「場」を現役世代から意識する日々の暮らしが求められる時代になっているように感じます。

シーズネットもそのような地域の場の一つとして存在感を示したいと念願しています。

老夫婦のあり方・・・その1

(通信2008-6月号から)

「5年前に主人を亡くしたひとり暮らしのA子さん(78歳)はうつ状態が続いて・・・」介護保険制度がスタートして数年後、介護支援専門員の資質向上を目的として介護支援専門員指導者研修が開催され、その講師のひとりとして研修を担当した時に、よくそのような事例に当たったことを思い出します。主人を亡くした女性がうつ状態になっている事例です。私たちシーズネット会員の中には主人の死がキッカケになってうつ症状がはじまり、改善されるまでに数年の歳月を要したという方もおられます。

当時はその理由がよく理解できませんでしたが、今こうして元気な高齢者の方々と接していると、その環境や背景がかなり理解できるようになってきました。

老後の多くは老夫婦の暮らしからはじまります。子供たちとは別居状態で同居が難しいこともあり、とにかく老後は夫婦仲良く子供とも距離をおいて夫婦による自己完結型の老後の人生を送ろう、と考えます。その考えは自然な形で起こりますが、元気な老夫婦時代はともかく、互いに歳を重ねていくこともあり、いつまでもそのような状態が続くことは至難の業です。どちらかが先に要介護になり、認知症になり、死を迎えられます。多くの場合男性が先に亡くなり、女性のひとり暮らしがはじまります。

第二の新婚時代のように老後の暮らしを老夫婦で共有し、遊びも旅行も常に同行できる暮らしが、一方の死によって消え去った時残された方のショックの大きさは十分理解できます。

仲の良い老夫婦の一方が先立たれた時、残された方がそのショックでうつ症状になるのではないかと思うようになりました。

わが国古来の家族関係があって家の中に息子夫婦や孫が同居していた時代は、老夫婦の関係があっても家の中には他の家族もいるため意識をそちらに向けたり、多様な関係の中で配偶者を亡くした悲しみも紛れることもあるでしょうが、老夫婦以外には誰も同居していない現代の家族関係では逃げ場がありません。

だから叫びたいのです!どんなに仲の良い老夫婦でも、2人だけで暮らしを完結させる考えはとても危険ですよ。どんなに仲が良くても、第三者的な友だちとの人間関係も大切にし、また子供との関係も持続させ、何かあった時はドンドンSOSを発信して、逆に周囲を巻き込むことがむしろ必要なんですよ!と。

核家族化の時代は、まず老夫婦としてどう生きるかが問われる時代であることは間違いありません。

老夫婦のあり方・・・その2

(通信2008-7月号から)

前回は第二の新婚時代が如き仲睦まじく過ごされている老夫婦の一方が先立たれた時の悲劇を紹介して、家庭内での自己完結の老後は良くないことを述べ、家族以外の人間関係の大切さを提案しました。

さて、今回は定年になって老後は奥様と楽しく過ごしたいと思っておられるご主人が家庭に老後の安らぎの場を求めようとしましたが、「今更なにを」「老後まであなたの世話はしたくありません」「どうぞ、ご自分で居場所を見つけて下さい」などと拒絶され、互いに仲違い状態になって、背を向け合って長い老後を過ごさざるを得ない老夫婦のあり方についても考えなくてはならないようです。

かつてのように家庭内に息子夫婦や孫が同居している時代は、老夫婦の関係は大した問題にはなりませんでした。引退した老夫婦でも孫の世話などそれなりの役割が家庭内に存在していました。また、夫婦仲に問題があっても息子や孫に意識を向けることによって仲の悪さが表面に出ないで、ごまかしが効きました。要は日々の暮らしの中で老夫婦が会話や顔を合わせることを避けることも可能でしたから・・・。

しかし昨今のように家の中に老夫婦以外に誰もいない核家族世帯では嫌でも対面しなければなりません。中には年金を折半にして、1階と2階に別れて同居内別居をされておられる方もあるようですが・・・。

そのような場合だと、配偶者が亡くなられると49日間はおとなしく我慢して家にいるとしても、それが過ぎると明るく外に飛び出して人生を謳歌される方も多いことと思います。

一方の方が虚弱や要介護状態になった場合の介護の問題ではいろいろと難しい問題に直面されることもあるようですが・・・。

いずれにしてもシニア人生のスタートは一般的には老夫婦としてどう過ごすか、になるのですが、老夫婦の仲の善し悪しが表面化するのも少子高齢社会の現象の一つであることだけは間違いないようです。

仲の良い老後でも、互いに背を向け合った老後でも、子供の世話にならない、地域の人間関係の煩わしさは嫌だ、として家庭内だけで全て解決しようとしても、現実はそんな容易なものではありません。

老夫婦の多くはひとり暮らし予備軍世帯と言われます。と言うことは、ひとり暮らしの高齢者が二人いる、と考えるべきなのかも知れません。そうであれば、夫婦であっても互いに自立した生き方に心がけて日々の暮らしの幅を広げ、人間関係の輪も広げていくような生活の工夫をすることが大切ではないかと思います。

ランチタイム

(通信2008-8月号から)

昼食は栄養管理のこともあって弁当持参が多いのですが、たまに外食することもあります。北海道の事務所は札幌駅に近いこともあって周辺にはシテイホテルも多く、最近はどこもランチコーナーを設けており、過日も久しぶりに近くのホテルで昼食をとることにしました。

ところが中に入ってびっくり。客の8割がシーズネット世代と同じ50代から60代の女性で、しかも大半がグループや仲間の様子。一寸した外出着でおしゃれをしているスタイルで、皆さん一様に楽しげに談笑されています。4人テーブルの全てはその女性仲間に占拠されており、友達と座るテーブルを探すと辛うじて2人掛けのテーブルが一つ空いており、何とかそこに自分の居場所を確保することができました。

よく見ると2人掛けのテーブルには、サラリーマンらしき中高年の男性がひとりづつ腰を掛けており、昼食をとりながら物憂げに女性の集団に見惚れている様子。

食事を待つ間も女性たちの笑い声と甲高い声が響き渡り、時にはテーブル仲間だけではなく、テーブル間の会話まで話の輪が広がっているようです。

そんな様子を呆然と眺めながら、フッと彼女たちのご主人は今何をしておられるのだろう、と考えてしまいました。まだ現役のサラリーマンで勤めておられるのか、それともリタイアした方なら自分の趣味の道で楽しんでおられるのか・・・。

老後は元気な女性と、女性に遅れをとっている男性、と言われて久しい気がしますが、確かに地域の中で老後を生きる人間関係を持っておられる女性の方々の強さと逞しさを改めて感じてしまいます。

実はね、と一緒に食事に来た友達が小声で囁くように教えてくれました。彼女たちのご主人の中には、家で留守番をしながら犬を散歩に連れて行ったり、テレビを見たりして過ごし、昼食はカップラーメンやパン食で済ませている人も多いようだよ、と。中には奥様方のアッシー君になって街中までマイカーで送迎さられる方も少なからずおられるとか・・・。

楽しい筈のホテルでのランチタイムが、何となく彼女たちのご主人のことを思うと寂しさを感ずるような昼食になってしまいました。

誰に、何に、頼りますか?

(通信2008-9月号から)

長年シーズネット会員としてさまざまな活動に参加されていた70歳過ぎのひとり暮らしの女性の方が、今秋首都圏に引っ越されることを聞き、いろいろ考えさせられました。

息子さん一家を頼ってその近くに居を構え、虚弱な老後に備えるとのことでした。

ご本人に伺うと「まだ心身とも元気で余裕のあるうちに、虚弱や要介護になって誰かに頼らざるを得なくなったとき、どうするか?を考えたとき、結局子供に頼るしかないと思いました」との言葉が返ってきました。

シーズネットの活動や、講演などで、これからの老後は子供に依存しない新たなグランドデザインを描いて、豊かに生きましょう、と投げかけていますが、そんな考えが容易ではないことを改めて突きつけられたような気がします。

確かに人間、ひとりでは生きていけません。誰かと関わり、誰かに頼って生きていかなければなりません。

以前はそれが家的制度に基づく家族のつながりでしたが、戦後の家的制度の崩壊、核家族化の流れによって、新しいシステムが構築されないまま、個人中心の人生観のみが走り続けているような気がします。

誰かに頼れない場合は、住まいに頼ろうとしているのが最近の動きではないかと感じます。要介護になっても介護保険施設に簡単に入れないとすれば、有料老人ホームや高齢者共同住宅など安心できる終の住まい探しが始まっていることは周知の事実です。

その住まいとそこでの人間関係(友達関係)が結びついたコーポラティヴな住まいのニーズは今後ますます高まってくることは間違いありませんが、そこには人間味溢れる優秀なコーディネーターの存在を欠かすことができません。

誰か・・・家族、何か・・・住まい、となれば、かつての老後を支えていた家族か、施設か、の選択と全く同じであることに気づきます。

そこで見えてくること!

家族が難しいとなれば、良い友達と共同の住まいの中で、互いのプライバシーを尊重し合いながら、一寸した助け合いっこをしながら生きていくような生き方づくり、に辿り着いてしまいます。

いずれにしても、人間はひとりで人生を全うすることはできません。そのことを認識した上で、心身ともに元気な内に、どう生きるかを考えるべきだと思います。

あなたは、誰に頼って生きますか?

あなたは、何に頼って生きますか?

進む?市民の孤立化

(通信2008-10月号から)

孤立死ゼロ推進センターの活動をしている過程で、一枚の資料が手に入りました。「全道警察署別死体取扱数(過去5年)」で余白に刑事部捜査一課に報告のあったもの、と記されています。

孤立死(孤独死)という言葉は最近頻繁に使われますが、その概念はバラバラで、厚生労働省も警察庁もその定義を明確にしていません。

はっきりしているのは人が亡くなった時、病院等で医師に見守られて息を引き取ったような場合は正常な死として取り扱われますが、事件や事故、自殺、突然の病死など医師不在での異状な死として取り扱われた数が記されていました。

その数が北海道全体で平成15年は5,633体なのに対して、平成19年は6,346体と11%も増加している実態を知って、いろいろ考えさせられました。ところが札幌市だけの数字を拾うと平成15年が1,650体に対して平成19年が1,976体と16.5%増加していることに、またびっくり!

孤独死という概念は当てはまりませんが、医師に看取られることなく異状な状態で死を迎える方が急激に増えている現実を思い知らされました。

孤独死も含めて異状な状態で人生の最期を迎える方が多い、という背景には何があるのでしょうか?何を学ぶべきなのでしょうか?

私見ではそのような現象の背景には、やはり家族関係や地域関係も含めた人と人との結びつきがドンドン希薄になり、地域と言う物理的なエリアは存在しても、そこでの人間関係がなくなってひとりひとりが孤立化への方向にいっている証と言えないでしょうか?

孤立した暮らし!

今わが国ではひとり暮らしでの住まい方が一番多く、コンビニやスーパーマーケットなど会話や人間関係がなくても買い物に困ることはありません。否むしろ煩わしさがなくて、そのような住まい方が歓迎されている節さえ感じられます。

若い世代は干渉されない、そのような生き方が良いとしても、高齢期に入っての孤立した暮らしに豊かで、安心した暮らしはあるのでしようか?

人と人とが干渉しないことは、互いに市民が孤立して生きることを意味します。そのことは人生の最期も孤立した迎え方になるのは当然のことと言えます。

その舞台が、それぞれが暮らしている「地域」なのです。

地域をどうするか?改めて考えさせられました。

あなたは人生最期の場面を想定できますか!

心地よい人間関係の中で~ラ・カンパネラ麻生1年の歩み~

(通信2008-11月号から)

去る10月3日(金)朝、ラ・カンパネラ麻生の1階サロンで入居者の方々が昼食を持ち寄り、ささやかな開設1周年を祝う場にぼくも招かれました。昨年春、シーズネット会員同士が互いのプライバシーを守り合いながらも、孤立しないようなコミュニケーションを保つことができる住まい方を求めて完成したのが札幌市地下鉄麻生駅近くにある「ラ・カンパネラ麻生」でした。

心身機能が低下してからではなく、元気な時から豊かなシニア人生を送るための拠点として、そして本人が希望すれば心身機能が低下しても終の棲家としても位置づけることができる住宅としても可能になるよう、会員の入居者の方々にはシーズネットが「交流・相談・紹介」の支援をすることを約束しています。

そして、その拠点として1階に多目的ホールが設置され、現在では毎週水曜日は相談日として、金曜日はサロンの日としてシーズネットからコーディネーターが派遣されて活動しています。

有料老人ホームにせよ、高齢者共同住宅にせよ、介護付でさまざまな家事や介護などの世話をする仕組みはありますが、住まいの一番の基本である入居されている方々同士の人間関係にはあまり手が届いていません。そのため入居者間の雰囲気が暗かったり、人間関係のトラブルが多発するなどのケースも多いようです。

個人的な暮らしは互いに尊重し合いながらも、さりげない人間関係の大切さを互いに自覚し合う雰囲気づくりはとても大切だと痛感しています。

ぼく自身時折ラ・カンパネラ麻生を訪問して入居者の方々との意見交換をさせて頂いていますが、1年経って感ずることは全体の雰囲気がとても明るいことです。

過日のシーズネット祭りの時にも会場の一番前でラ・カンパネラ麻生の皆さんが陣取って盛んに拍手を送っておられた姿が印象的でした。女性同士手をつないで助け合っておられました。

高齢者住宅は普通入居者とオーナーとの関係で成り立っていますが、そこにシーズネットのような第三者機関が入ることによってさまざまな調整が可能になり、バランスの取れた運営もできるのではないかと思っています。

そのような仲間とともに過ごすシニア人生・・・ぼく自身のこれからのシニア層の理想系の住まい方として、ずっと関わって、そのあり方を追い求めたいと念じています。

今月の通信の中にラ・カンパネラ麻生のチラシが同封されています。現在入居者を募集していますので、関心のある方は是非現地をご覧下さい。

意識し合う関係づくり

(通信2008-12月号から)

孤立死ゼロをめざす普及啓蒙活動を続けていて、その予防や早期発見には市民同士の人間関係づくりが基本にあることは言うまでもありませんが、その実現は容易なことではありません。

そのような中で、町内会を中心に「見守り」というキーワードが登場して、在宅で暮らしておられるひとり暮らしの高齢者の安否を周囲の市民たちがどう確認するかが、課題になっています。電気の点灯や消灯、カーテンの開閉、郵便受けの状態把握、というチェック体制が、その典型的な事例と言えるかも知れません。定期的にゴミを出しているか、1日1回はその人の姿を見かけたか、毎日散歩に出かけているか等など。

しかし、その見守る側と見守られる側との関係には通常人間関係はありません。人間関係はないが、周囲から見て気になる存在で見守らなければならないと感じている人々と、同じ近隣の住民としてどのような関係を結んでいくかがテーマになってきます。

そのような安否確認のための見守り活動のあり方を考える度に、そのつながりのあり方について考えてしまいます。しかも、相手は多くの場合見守られることをプライバシーを武器にして拒否するのが一般的なので、決して歓迎される行為にはなっていないのです。「余計なことはしてくれるな。放っておいてくれ!」と言われるのが一般的ですから・・・。

人間的なつながりはない、だけど同じ市民としてその存在が気になる、と言った場合に、「人間関係はないが、同じ人間として一方的かもしれないが、意識し合う関係づくり」と言う新たな地域での関係づくりが必要ではないかと、最近思うようになってきました。

「あの人は付き合いを拒否しているのだから、放っておけばよい」との考えが、地域の中で今までは主流を占めていましたが、これからの地域課題はそのような姿勢では解決しなくなっています。

プライバシーは尊重するが、緊急避難も含めて同じ地域住民として意識し合いましょう、という環境づくりが、これから必要な気がします。また、関係づくりを拒否していても、根っこでは人との交流を求めている人が多いのも事実なのですから・・・。

「市民が孤立しない地域づくり」には、そのような新たな関係づくりを行い、互いに存在感を認め合って、意識し合う・・・そんな地域風土をそれぞれの地域の中でつくっていきたいものです。

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