岩見太市遺稿集『豊寿語録』-2013-
少子高齢社会の新たなシニア人生の生き方、考え方・・・・
さまざまなシニア人生を取り巻くドラマを、皆様と一緒に考えたいエッセーです。ご意見・ご感想をお待ちしています。
地域家族の具体化に向けて
(通信2013-01月号から)
新年明けましておめでとうございます。
今年2013年は、いよいよ団塊の世代である昭和22年生まれの方が65歳に到達し、本格的な少子高齢化社会のピークに向かう年になります。お陰さまで昨年出版した拙著の題名、地域家族と言う言葉も、それなりのインパクトを与えたように思いますが、大切なことは、その具体的な実現に向けてシーズネットはどのような歩みをするか、だと思います。
今年は下記の3点について、力を入れる必要があるのではないかと思っています。
- サークル・グループ活動の増加と拡大
シーズネット会員同士がお互いに知り合う第一歩は、やはりサークル活動を通じてだと思います。ただ私たちは、あくまで会員の主体的な取り組みを原則としていますので、さまざまな趣味、嗜好、その他の仲間同士が集まれるサークルを、積極的に立ち上げて下さる人材を欠かすことができません。是非、さまざまな活動を展開するために、積極的にシーズネットの活動に関わって頂きたいと思います。
- サロン活動の増加と市民へのアピール
現在シーズネット北海道では、札幌市からサロン立ち上げ団体への相談機関としての委託を受けています。居場所づくりの最大のテーマは毎日型で気軽に立ち寄り、おしゃべりや趣味活動あるいは軽食ができる集いの場です。そのような場こそ、人と人とが知り合える場となります。
従来のシニア人生の居場所であった家庭内では難しくなった今日、家庭に代わる「暇なときに気軽に立ち寄り、人とおしゃべりができて何かすることがある」サロンと言う拠点を充実、拡大していきたいものです。
- 生活支援への取り組み
シーズネット京都が活発に動いている、介護保険外の一寸した助け合い活動から始まって、孤立死を防ぐための自然な見守り合い、さらに市民後見活動などのさまざまな生活支援活動の事業を行うことによって、地域家族が大きく前進することになります。ひとり暮らしのシニア層がますます増える中で、互いに助け合い、支え合う活動を欠かすことができません。
今まで比較的弱点だったシーズネット活動の生活支援に、今年こそ第一歩を踏み出して、安心したシニア人生が送れる地域づくりに一石を投じたいと思っています。
ジーパン人生
(通信2013-02月号から)
ぼくは、30歳代以降に信州長野県に移住してからは、ジーパン人生と自称し自然の中で、動き回り、形式に捉われない生き方の象徴として、ジーパンスタイルを好んでいました。
20代のサラリーマンの時は、1年を通じて背広とネクタイ姿で、金融機関として堅い仕事の中で規則正しい仕事をしていましたが、当時から山登りが好きだったせいか、どうしてもそのような人生になじめないで、信州の自然にあこがれて移住した経過があります。
ですから知的障害者の施設長をしていても大半をジーパンで過ごし、掃除から草むしりなどもして、地域の人から施設長らしくないとよくいわれたものです。自由な発想で、理屈より行動で解決する象徴としてのジーパン人生で、若い頃はそのような生き方を謳歌してきましたが、これからの人生におけるジーパン人生って何だろうと考えています。
ご存知の通りぼくは70歳を超えた今もジーパンが好きで、特に予定のないときは家でも事務所でもジーパンスタイルで、1年を通してジーパンをはいています。でも、若い頃のように自由奔放の象徴として動き回り、行動的な生き方は年齢的にも、病気の上でも出来なくなっています。
ジーパン人生の象徴は、ぼくにとって<動>でしたが、今考えているのは<静>のジーパン人生はどんな生き方だろうと言うことです。年齢や病気を無視できませんし、過去の姿にしがみついていると精神的に参ってしまいます。
老いにおけるジーパン人生の生き方は、自分の中でまだ確立されていませんが、一般的には、家を拠点にして散歩や買い物など日々の時間を決めて、規則正しい生き方をされている方が多いようです。後は病院回りで日々を過ごすのが当たり前と言う方が、同じマンションのシニアの居住者を見ていると殆どです。
そのような生き方がむしろ自然で当たり前だと思いますが、ぼく自身はやはりどこかで社会と繋がっていないと生きていけない人間です。これから加齢や病気の進行によってどう変わるかわかりませんが、少なくとも今の心境は過去の価値観に拘束されない思いつきやアイデアなど、気持ちとしては自由な発想を持って、自ら実行できなければ周囲に働きかけを続ける・・・そんな生き方をシニア人生におけるジーパン人生と呼びたいと思い、これからも出来る限りジーパンがはける人生を歩みたいと念願しています。人と繋がる、地域や社会と繋がる、そんな生き方です。
新たな出会いの道を
(通信2013-03月号から)
例年のことながら3月は人が動く月です。企業では人事異動や新規採用、定年退職、学校では入学と卒業・・・さまざまな人事異動が新聞にも掲載され、そのひとつひとつに人生のドラマを感じます。特に会社員や公務員などサラリーマンにとっては、人事異動が人生の全てと言っても過言ではありません。さらに、今年は団塊の世代の二番手、昭和23年誕生の方々も65歳に達して、定年を迎える方が急増すると予測されています。
定年後の人生をどう送るか!人生そのものには死に至るまで定年がありませんから、仕事が終了した方々は、その後の10~20年をどう生きるか大きなテーマです。男性の中には現役時代の人間関係に疲れ果てて、人付き合いのない悠々自適の人生を送るとか、ひとり写真や釣りなど好きな趣味に生きる、と仰しゃる方が多いのですが、そこに孤立死の7割が男性と言う背景があるようにも思われます。
シニア人生は元気な世代だけでなく、虚弱や病弱、要介護など身体的な制約を受けて、それらの活動ができなくなることもあることを、自覚した生き方が求められています。孤立したシニア人生に豊かさ、幸せ、充実感はありません。さまざまな悲劇が待ち受けていることは、現実が証明しています。サラリーマン時代のようなタテ型の人とのつながりではなく、新たなヨコ型人間関係を求めて、新たに人生を踏み出して頂きたいと念願しています。
その基本は、とにかく新たな人とのつながりを作ること・・・その一歩には勇気が必要だと思いますが、長いシニア人生には不可欠です。私達シーズネットは、人のつながりを通じて、豊かなシニア人生の創造を目指しています。趣味活動にせよ、現役時代の得意分野を活かすにせよ、ボランティア活動にせよ、さまざまな人間関係をベースにした活動を通じて、新たなシニア人生を構築して頂きたいと念願しています。
これからは、元気な時だけではなく、虚弱、病弱になっても、シーズネットの仲間同士のつながりが継続できるような、仕組みづくりが課題だと思っています。ぼく自身の体験からも、そのことを実感し、人間関係、居場所、存在感の3つを中心にして新たな人との出会いをつくる場としての機能を、シーズネットが果たせるようにしたいと思います。人と人を結びつけるコーディネーターが、これからのシーズネットに必要になってきます。地域でも同じことが言えますが・・・。
傾聴し合える人間関係の絆
(通信2013-04月号から)
シニア人生で孤立しない生き方について今まで数多くの事例を挙げながら訴えてきましたが、次のステップとして人間関係の絆について触れたいと思います。
「健康は、健康をなくしてはじめてその有難味が実感できる」と言うのが、ぼくの今の心境です。健康な時は「健康は目的ではなく手段ですから、健康な体で何をするかが大切です」と話してきました。
そして今思うことは「健康とは身体的だけではなく、精神的、社会的にも健康でなければならない」と言う国連の定めた定義が浮かんできます。
シニア層の多くの方と接しているとさまざまな孤独感、不安、心配事を抱えながら日々を過ごしている方は、身体的な健康の方にも随分大勢おられる現実です。しかも身体的な健康をなくして行動などが制限されると精神的にも病気になる可能性が高いという事実を身をもって体験しました。
心の痛み、心の悩み、心の苦しみは、口外するかどうかは別として多くのシニア層の方が感じておられることは間違いありません。
ぼくは新刊本「地域家族の時代」で、人間関係における傾聴の重要性を訴えてきましたが、今の私たちを取り巻く生活環境、家族環境はますます精神的な不安感を増幅させる傾向にあります。
そんな時に互いにシーズネットの仲間同士が健康状態であれ、病弱や虚弱、或いは要介護状態であれ、心の痛みを内面に抑えるのではなく、話し合える人間関係づくりが意欲的に生きる大きな力になると思います。
心の痛みや苦しみを話される方がおられたら、その言葉を受容し、傾聴してあげる能力を身につける・・・そのような痛みを持っておられると感じたらまず自分の心の痛みを話して、相手の方にも話しやすい雰囲気を作ってあげる・・・そのような関係づくりがとても大切だと痛感しています。
ぼく自身も病気を抱えて苦しい時に親しい会員の方に話すと、相手の方も同じような体験を話して下さり、同じように痛みや苦しみと共生したり、戦っておられる方が身近におられるのだ、と感ずると何となく精神的に楽になりホッとすることがよくあります。
最近ぼくが努めていることはシーズネットに来られない虚弱や病弱の方で気になる会員さんに電話をして声を聞きながら傾聴し合えるつながりを維持することです。メールでの交換より、やはり実際に声を聞く方が感情も伝わり、気持が理解しやすいものです。
表面的な人間関係だけではなく、信頼できそうな会員さんがおられたら是非互い傾聴し合える関係づくりも考えて頂きたいと感ずる今日この頃です。
「生きる」ということ
(通信2013-05月号から)
生き物である人間は必ずいつの日か「死」を迎えることは誰もが承知しています。そして老いと言う加齢とともに、その可能性が高くなることも殆どの方が承知されています。
ところが健康な時は死のことは考えず、また日本の社会では死生観と向き合うこともなく、ピン・ピン・コロリンという単純な言葉で、深く考えることから逃避しているように思えます。ぼくも健康な時は老いへの過程や死そのものを具体的に考えたこともなく、抽象的な概念でしかありませんでした。実家は浄土宗ですが、宗教心も死生観も持っていませんでした。
ところが生存期間が限定されてきたがんと言う病気で医師から余命を告知されたということは、その期間の長短は別としても「死」という問題を現実に考えざるを得ない状況になっています。もう告知を受けて2年以上になりますが、まだ自分の中では受容もできず、次第に現実感も高くなっているのに苦悩ばかりが高まっていきます。
そのような環境の中で、逆に日々をどう生きるか、と言うことについても深く考えるようになりました。当初は社会的な活動が続けなければ生きている意味はない、と大言壮語していましたが、今はその価値観も変わりました。
96歳の母親が日々必死に生きている姿、さまざまな障害を持ちながらも与えられた命を大切にして前向きに生きておられる姿、かなり虚弱な体でも杖をつきながら懸命に街中を歩いておられる姿、また介護されている方の中にも寝たきり老人や認知症と言われながらも人間性の尊厳を持って介護されておられる方々の姿・・・そのような人々の光景を見ていると人間が生きると言うことは社会的な存在感だけではなく、「生きている」こと自体が人間としての大きな価値があり、その過程を通じて「死」が存在していることをある面では受容できるようになるのではないでしょうか?
最近はがんと共生し、次第に近づく人生の終焉の中で、そのような考えを持つようになってきました。「如何に死を迎えるかということは如何に生きるか」につながってくる・・・そんな考え方でしようか。
特にシニア人生は加齢に伴って健康を害することも多くなります。加齢による障害も増えて、人生の終焉を自覚しますが、人間とは弱い面もありますから、良い人間関係、人とのつながりによって支え合うことが余計必要になってくる・・・それが自立した生き方であり、その理念が地域家族であり、シーズネット活動だと実感するようになっています。(介護新聞連載記事抜粋)
さすらう(漂流する?)男性高齢者たち
(通信2013-06月号から)
買いたい本があってスーパーマーケット内にある書店コーナーに足を運びました。目的とする本を探しながら何気なく周囲を見渡すと、書店にいる人の大半が男性の高齢者であることに気づきました。勿論皆さんひとりで、マネー雑誌コーナー、旅行本コーナー、単行本コーナーなどそれぞれのコーナーで目的の本や雑誌を探しておられるようです。
目的の本を買って改めて店内の周囲を見渡しながら帰路について再び気づいたことは、書店コーナーだけではなくスーパーマーケット内部をひとりで歩いておられる男性高齢者の姿の多いことが改めて気になりました。商品を探しておられ様子もなく、ただ広い店内を散策されているような雰囲気なのです。
そう言えば、シーズネットの事務所が札幌駅の北口近くにあるため、ぼくは元気な頃はよくJRや地下鉄の札幌駅、更に大丸周辺を歩く機会がありましたが、雑踏の中でやはり男性高齢者たちの散策する姿が気になっていました。サラリーマンとしての人生に定年が訪れ、次の暮らしの舞台で家庭内にも地域社会にも行き場のない男性高齢者たちが、行き場を求めて街中をさすらっているような光景に思えてなりません。
そのような方々は一様にこざっぱりした身なりで、リュックを背負ったり、手には小さなハンドバックを持ち、サラリーマン時代を懐かしむようなスタイルです。別に買物をするでもなく、JRや地下鉄に乗ってどこかに行くでもなく、明らかに目的もなく街中をさすらっている姿のように思えるのです。
かつてNHKがスペシャル番組として高齢者の漂流社会を放映していましたが、その漂流の内容はさすらう高齢者たちが虚弱、病弱、要介護になって終の住まいがなかったり、ひとり暮らしになった男性が家事の自立ができていないため、サービス付き高齢者住宅や介護付き共同住宅、施設のショートステイ、病院などを転々として行き場がなかったり、安住の地のない高齢者の光景です。
健康で、できれば元気な現役時代からシニア人生のグランドデザインを描くことの大切さを示しています。
そのためにはさすらうシニア人生にならないように人間関係、居場所、存在感、そして終の住まいの4つの要素を確保、維持していくことが大切になります。これらの課題はもう家族だけでは解決できないのです。故にこの問題は自助である個人だけではなく、公助である行政の課題でもあると思います。特にさすらったあと漂流しなくてすむ要介護の安住の地の存在は政治課題です。そして人間関係を中心とした共助の存在です。介護保険はそのためにできた制度の筈ですから!
福祉の変化
(通信2013-07月号から)
昨年2012年の秋『地域家族の時代』と題する新しい本を刊行しましたが、今回は改めて戦後の福祉の変遷を整理して、その必要性について一緒に考えたいと思います。
全体的には措置という言葉に代表される行政主体の社会福祉事業法が自立支援を基本理念とした社会福祉法に代わり、福祉自体の考え方が大きく変わっていることは承知の通りです。そしてその流れを大きく、4段階に分類することができます。
- 家族福祉の時代
換言すれば自助の時代で、社会福祉に関する法律が整備されていく昭和30年代までは最小福祉単位である家族同士が互いに助け合って生きていく時代で、高齢者でも障害ある方々でも家族同士で、さまざまな課題を抱えながらも家族間で支え合っていました。
家族間での相互扶助が困難な場合は慈善事業と呼ばれる、善意の福祉推進者による施設が主体でした。
- 施設福祉の時代
第二次世界大戦終了後、経済の発展に伴って社会福祉も整備されるようになりましたが、社会福祉法人制度ができて増えたのが障害者別の社会福祉施設でした。
家族での介護が困難な場合は市町村の措置によって社会福祉法人の社会福祉施設に入居し、介護サービスを受ける時代です。特に北海道は各市町村が競って社会福祉施設をつくり、施設主体の地域になったことは広く知られています。
- 在宅福祉の時代
ところが昭和50年代に入って入居施設主体の流れが在宅福祉が導入されるようになりました。ホームヘルパーの派遣、デイサービス、ショートステイが在宅福祉3本柱と言われていた時代ですが、制度は市町村の措置であり、家族関係によって入居と在宅が振り分けられていたと記憶しています。
- 地域福祉の時代
社会福祉法に代わって介護保険制度が導入されましたが、核家族化によって公的支援だけでは在宅介護が難しいのに、国は基盤整備も行わないで在宅主体に制度を変えつつあります。
そんな中でそれぞれの地域社会の中で住民同士の共助・互助と呼ばれる助け合い活動の必要性が言われるようになってきました。
孤立を避けるためにも、住民主体での人とつながる地域社会づくり・・・地域家族にはそんな背景があることも認識して頂きたいと思います。
山登りと人生
(通信2013-08月号から)
ぼくの青春時代は山登りに終始していました。
一番最初に登ったのが大学進学記念での加賀の白山であることは今も鮮明に覚えています。山登りがどんなものか、全くわからないままに登ったものです。
次いで鳥取の大山、そして立山剣連邦に登って北アルプスに魅せられるようになり、上高地からの槍が岳をキッカケにして槍が岳を中心に表銀座コース、裏銀座コース、そして穂高にも足を踏み入れました。全て山小屋泊まりでしたが、槍が岳は15回位登ったと記憶しています。
信州に移住してからは白馬岳を中心に白馬三山を中心に上田市から早朝マイカーで登山口の猿倉に入り、日帰りで往復したものです。山登りはぼくひとりではなく、大抵職場や近所友だち、学生時代の友人などさまざまでした。
不思議なもので山に登っている時は汗がダラダラ流れ、足が突っ張り、激しい疲労感、もう二度と山登りはしたくないと思うのに、いざ山頂に立つとコースの辛さを忘れて、山頂からの眺めや登ってきたコースに感動して、また登りたくなる、という心境だったと記憶しています。
山頂に立つ目標のために、頑張れたのでしようか?とにかく何故か自分でもわかりませんが、山登りは好きでした。
札幌に来てからは山登りとは疎遠の人生になりましたが、数年前から我がマンションの眼前にある藻岩山に登るようになり、病気になるまでの3年間程度でしたが、200回を超え1年中夏でも冬でも藻岩山に登っていました。
今は全く登れなくなりましたが、藻岩山は全て単独で登っていました。最近山登りに夢中になっていた若い時代をフッと思いだすことがありますが、今の人間関係を見ているとかつて一緒に山登りに苦労した友だちとの思い出が一番大きく、深いことを感じます。
良く戦友仲間の絆の強さが言われますが、やはり人間関係は遊び友達ではなく、何かの目標に向かって一緒に汗をかき、苦労した人間関係の方が存在感も大きく、いざという時の助け合いの仲間にもなることを感じます。
30年以上前に一緒に登った仲間が、その空白を超えてぼくの病気を心配してくれるのもそのようなかつての山友だちです。
多分そのことは加齢になっても同じだと思います。一緒に目標に向かって努力して歩める友だちを見つけ、そして共に努力しながら歩む・・・。シーズネットがそのような深みのある人間関係の場であることを念願しています。
旅立ちへの準備
(通信2013-09月号から)
我が国が少子高齢社会に突入して、家族関係が大きく変わった中で、自分達の生前の後見、死後の遺言をどうするかが、大きなテーマになり、子供に任せるのではなく、自分の意思で決めようと言いうシニア層の流れが出てきました。
シーズネット京都でも数年前に独自の旅立ちノートをつくり、販売したことがあり、随分売れたと記憶しています。ぼく自身も今自分の意思や財産をどう遺言するか公正証書にまとめてありますが、考えれば公正証書の内容だけでは不十分です。
我が一家は28年前親戚も家族もいない北の大地に移住しましたが、がん告知を受けている中で、生前のことだけではなく死後のことも予め定めておかなければなりません。家内は札幌の葬儀のあり方や宗派、進め方、財産分与などの知識は全くありません。そんな中で、ぼく自身がどんな葬儀を希望し、誰に葬儀委員長をお願いし、お別れ会をどうするかと言ったことまで決めておかなければ、家内はどうして良いのかわかりません。
これから核家族化がますます進む中でそのような仕組みを遺言や成年後見に頼るだけではなく、互いの人間な関係で解決していく仕組みを作る必要性を痛感しています。
ぼくは公正証書の遺言の他に岩見太市・人生の歩み、経歴書、葬儀などの希望など必要事項をまとめ1冊のファイルとして保管しています。
もう一つの準備が私物整理です。ぼくは3年前に最初の余命告知を受けた時に自分の過去の日記、写真アルバム、随筆集その他不要と思われるものを全て廃棄処分にしました。
30代から信州に移住した後のぼく自身に関する新聞記事、雑誌のレポートそして最近ではテレビのVTRやDVDなど社会的な活動や過去に出版した本のみをファイルに時代別にまとめて保存しています。ぼくが残しているのはその2種類のファイルのみです。それでもかなりの量になりますが、不要と判断すれば全て廃棄しても良いと家族に伝えてあります。
要はこれからの生前、死後の自分自身の対応、もう一つは自分の人生の中で経験してきたもののどれを捨てて、どれを残すかと言う私的なものの整理の2つの側面から、残された家族が混乱しないように整理しておくことが避けられないと思います。
ただこれをひとりですることは困難なため、シーズネットとして希望される方には支援チームをつくって家族がおらなくても安心な生前、死後の仕組みづくりが必要になってくると実感しています。
身分証明
(通信2013-10月号から)
70歳台の仲良し5人の仲間が地域の高齢者大学に出席したあと、近くそば屋さんで昼食をしました。高齢者大学では黙って講師の講義を聞いていたためか、食事中は互いに言葉が途切れることもなく、話が弾んでいました。
食事が終わって帰ろうとして店を出て少し歩いたところで仲間のひとりがふらついたような歩き方をしているのが気になりました。「大丈夫?」と声をかけましたが、返事のないまま更に少し歩いたところでその女性はバッタリと倒れこんでしまいました。
他の4人がその女性を取り囲んで声をかけましたが既に意識はなく、顔色も悪く急病を発症したことは疑う余地はありませんでした。直ぐに救急車を呼び、仲間のひとりが救急車に同乗することになりましたが、その女性はひとり暮らしであることは知っていましたが、家族状況などについては誰も知りません。気が動転していることもあって、「どうする?」「どうする?」と戸惑うばかりです。
手提げカバンの中を調べても本人の身分証明らしきものはなく、家族への連絡先や通院カードのようなものも見当たりません。本人のことはある程度仲間同士の結びつきで知っていても、家族のことや病歴等については全くわかりません。会話の中で娘さんがおられることや、心臓を病んで通院していることはわかっていても、詳しい具体的なことは全くわかりません。
救急隊からいろいろ聞かれても応えようがありませんでした。結局その女性は突然死のような感じで亡くなり、病気はあとで聞くとくも膜下出血とのことでした。
PPK(ピン・ピン・コロリン)に憧れる高齢者は多いのですが、そのための備えをしている方は意外と少ないものです。いつ、どこで、何が起こるか、わかりません。せめて突発的なことが起こって本人に意識はないとしても、最低限必要な情報(住所・氏名・家族への連絡先・かかりつけ医・血液型)を記したカードなり、身分証明的なものは絶えず身に着けておく必要がありそうです。それによって自分の周りに異変が起きても、必要なところへ連絡が行くことが可能になるのです。
あなたは何が身分を明らかにするものを身に着けていますか?意識をなくしても、どこの誰だかわかるようになっていますか?
終の住まいとマイホーム
(通信2013-11月号「遺稿」から)
わが国が高度経済成長の歩みを始めた1960年代都市近郊の田畑は住宅街に変身して、私たちの若い頃の夢であったマイホームが林立するようになりました。当時20代から30代の若い同質のカップルがローンを組んで念願のマイホームを手に入れ、そこで生まれた子供たちと楽しいマイホーム人生を歩むようになりました。
全国的に有名な地域としては大阪の千里ニュータウン、東京の多摩ニュータウン、更に東京新宿区の戸山団地、千葉の常盤団地、札幌でももみじ台と隣接する青葉町、南区の藤野地区、清田区の北野地区など多分全国至る所に存在します。そしてほぼ50年が経過してマイホーム一家の二世たちの旅立ちがはじまると同時にそのような団地の衰退期が訪れるようになり、今や老夫婦やひとり暮らし高齢者の団地になりつつあります。
かつて子供たちの遊ぶ姿で満ち溢れ、笑い声が絶えなかったその巨大団地は静まり返り、孤立した高齢者たちがひっそりと暮らしています。ましてや札幌のような北の大地では雪や寒さによって、長い冬の除雪や排雪、庭の手入れを欠かすことができず、家の中でも外部との気温差によって生ずる結露に悩まされるようになります。若い時代はともかく70代後半から80代なって老夫婦やひとり暮らしになるとそのような家自体の管理も難しくなり、もう除排雪の心配が不要で、機能的な住まいであるマンションへの住み替えを考えるようになります。
自分が虚弱になっても別居している子供たちが実家に戻ってくることは困難であることを自覚した高齢者たちは、苦労して手に入れたマイホームを手放して街中のマンションへの住み替えを決断し、実行します。都市部を中心に住まいに関しては郊外から街中へ、戸建から集合住宅、そして分譲から賃貸への移住がはじまっています。
札幌でも札幌駅周辺にはタワー(高層)マンションラッシュが起こっています。都市部ではサービス付高齢者向け共同住宅や高齢者共同住宅の建設ラッシュも起こり、過剰な供給体制が問題になっているのは周知のことだと思います。
念願のマイホームは結局安心できる終の住まいにはなりませんでした。そのことを悟った高齢者たちはマイホームを捨てて、気軽な状態で安心できる終の住まいを求めて住み替えはじめているように感じます。あなたの終の住まいは大丈夫ですか?
動物のとしての人間
(通信2013-12月号「遺稿」から)
世界の中でも先進国の少子高齢社会が進んでいますが、特に日本は特殊出生率も極めて低く・・・
- 親子の別居
- 結婚しても子供を作らない若者たち
- 結婚しない若者の急増
- 夫婦・親子の虐待・親が乳幼児の養育を放棄する
などの異常な現象が出ています。
ぼくは毎週土曜日NHKTVでの「ダーウィンが来た」を見ています。親子や夫婦のいろんな動物の生き方の生態、特徴、習慣が見事に描かれています。その内容に感動していますが、その特徴として次の3点を指摘できると思っています。
- 子孫である子供を残すのが親の本能であること。
- そのためにオスがメスに働きかけて子供を創ろうとすること。
- 親は命をかけて子供を守っていること。
以上の3点が動物の本能であるということです。
かつて人間社会も動物として子孫を残すことが本能として働き、結婚という形態が生まれました。夫婦という関係です。その形態を維持するために家族制度がありましたが、今は民法では家家族制度はありません。ところが文化、経済、知能の発達する先進諸国ほど、子供を意図的に創らない、子供を殺す、虐待するといった人間の本能を失いかけているような危惧を感じます。
長い歴史の中で、人間も動物として子孫を残してきました。ところが今はどうなのでしょうか。本能を忘れてしまった人間になってしまったのでしょうか。
もう一度人間の原点に戻って、人間の本質、本能を感じ取り、文化や個人の暮らしばかり追わないで、本能を取り戻し、人類全体の継承のあり方を考える時期に来ているように思います。そうでないと、人類は破滅の危機に陥る危険性を感じます。人間って、どんな動物なのでしょうか?