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6月 26

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会員の広場(2018.7)

短歌勉強会
難しき名前多しと嘆く友
孫六才の入学式に (浪岡 豊明)

鰊漬け残り少なくなりたるも
 愛しむ我はかき混ぜて出す (坪川真紀子)

運悪く綿毛の道にきてしまい
 花粉症のわれ一日むずかる (瀧澤いつ子)

太巻きの芯は得意の卵焼き
 妹よりの花見弁当 (福栄真理子)

思い出もわれも忘れし母君は
 差し出す匙に口を開けおり (中浜 敏明)

石けんのかほり残して自転車は
 高校への道曲って消えた (中山 寿子)

俳 句
晩夏光からくり時計正午打つ    
 軒の端の口数多き燕の子 (川口 昭治)
五行歌
見知らぬ人に
こんにちは
なんと白い歯こぼれ
こんにちはと
天気は上々 (福栄真理子)

昨日まで
満開に咲きたる八重桜
一夜の風に舞い散りて
みじかき命
こんもりと山なす (友田富美子)

エッセイ

「喜寿を迎えて想うこと」

 昭和16年(1941年)の4月に生まれ、それ以来76年間いろいろなドラマがありました。
 今振り返りますと、次から次へと涙あり喜びありの思い出が走馬灯のように、私の胸を過って行きます。

 貧乏の子沢山(6人弟妹)の長男として生まれ、戦中戦後は食べるもの着るものなど全てが不足していました。何時も腹を減らしジャガ芋、南瓜などの代用食でした。白米は食べた記憶がありません。また着るものは、古着屋で買った国防色の服を着て、袖先はいつも鼻汁でテカテカでした。

 我が家の周りは野菜畑に早変わり、又鶏、山羊を飼い自給自足の生活でした。それは厳しい時代でした。父は技術屋で国鉄に勤め、母は八百屋の看板娘で明るく元気な人でした。

 父が赤紙で徴収され、陸軍(旭川第七師団)に入隊し中国北部を転戦し、飢えと寒さから肺炎になり終戦後命からがら帰って来ましたが、肺炎から肺結核を患い入院を繰り返し50歳前半で亡くなりました。

 私が高校2年の時でした。その後、母は働きっぱなしで6人の子供を育て上げました。私は進学し教師になる事が夢でしたが、それは叶わず就職し40数年間平凡なサラリーマン生活を送りました。

 また家内との出会いがあり一緒になり約半世紀が過ぎました。65歳でフリーになり横社会にデビューして10年余り色んな事に挑戦して来ました。思い残すことはありません。77歳にして元気で幸せ一杯の毎日を過ごしています。このことに心から感謝して残りの人生を充分に満喫したいと考えています。 (浜 正吉)

コラム

「梅公園 ピンクは人を幸せに・・・」

 19人の皆様と梅公園行き臨時バスで行きました。とてもいい天気に恵まれ梅が満開、人も満パイとても賑やかです。固まって席をとり、手作りのご馳走を次々と並べたのは、梅にも負けず美しい代表でした。

 それぞれ持参したものを食べ、代表のきれいな桜御飯と赤飯も戴きどれも皆心のこもった抜群の美味でした。言葉の花びらを散らしたら食事をする。一寸目についたのが住宅に詳しい西原様が元気で若々しい姿を見せていました。楽しんでおられました。食事も終わり個々に行動し(梅ソフトクリームを食べたり、高台に登り全体の景色ピンクと白のパラダイスを観たりetc) 楽しいシングルの会のお花見でした。 (ホヤレイ)

絵手紙


(大西 孝子)

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