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4月 01

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会員の広場(2023.4)


短歌

愛する娘よ人の傷みの極みまで
 知るや届きし重き小包 (本田 征子)

こんなにも心の中で待っていた
 マスクをはずして友と会う日を (小西 和子)

川柳

春告げる縁起よい名の福寿草
 笑うこと薬いらず百までも (田村 ノブ子)

旅に出て老いの器量が試される
 まだまだと思い老後の中に棲む (浜 正吉)


投稿五行歌

痩せ細った体に
 じっと見つめる
大きな黒目
 アフリカ難民の
うずくまる餓死 (寺島しのぶ)

前かがみの
 ザーザーの足音に
タッタッタの音を
 意識して
頑張る自分がいた (ひろ)

エッセイ

「横路元知事の歴史から」

横路氏死去を知り、切抜き保存していた平成30年7月~8月道新夕刊に掲載の「私のなかの歴史」全35回を読み返しました。

小学生の時学校前にあった大通拘置所から、時々、腰縄をつけぞろぞろと検察庁まで引きずられ歩いている人たちを不思議に思い、両親に尋ねると、「悪いことをした人もいるし、そうでもない人もいる」と。そして「無実の罪を着せられた人たちを助ける仕事があって、それが弁護士なのだよ」と両親から教わり、卒業文集に「将来は弁護士になる」「弱い人を助け正義を実現する」と書き、2度目の司法試験挑戦で合格、27歳の時札幌弁護士会に入会し夢を実現したこと。

中学生の時左足骨折の交通事故で、1年5カ月の長期入院し、懸命にリハビリした経験が、後に障害者福祉に力を入れ、福祉行政で最も重視した福祉の基本であるノーマライゼーションの考え方を広めることになったこと。
地域の特色を活かし住民が主人公の町おこし、村おこしの「一村一品運動」を進め、地域の連帯感向上・活性化に努力したこと等の数々の功績を再認識することが出来ました。

そして平成元年はまなす国体終了後、知事室で横路知事と私達行幸啓担当者等が写った写真を、改めて大切にしたいと思いました。 (鈴木 誠治)

俳句

蕗のとう北の大地の息吹かな
 下校の子かけ行く小径春しぐれ (川口 昭治)

春動くなつかし写真セピア色
 桜もち未来信じる子供たち (渡辺 セツ子)

五行歌の会

小さな楽しみを
 見つけて歩く
きょうは、お釣りの中の
 新500円玉
なんか嬉しい (大塚 健太郎)

凍てつく木の中は
 ピーチクパーチク
雀の大合唱
 世の中も
こうありたい (板垣 町子)


エッセイ

日本人が知らない「知られざる英雄」

 私は昨年、豊平区東月寒にある、「つきさっぷ郷土資料館」を訪ねました。
2階の3号展示室は旧軍関係でボランテイア説明者が、この建物は旧北部軍司令官の建物で陸軍中将樋口季一郎さんが使用していたもので、樋口さんは偉大な方で、太平洋戦争終戦時昭和20年8月17日千島列島最北端の占守島にソ連軍が上陸、日ソ中立条約に違反した卑劣な侵略行為を前に、樋口司令官は「自衛のため、断固反撃せよ」と命令、日本軍の徹底抗戦に手を焼いたソ連軍はとうとう北海道の占領を諦めました。
(北海道の北半分留萌→帯広→太平洋岸までの占領下計画、旧ソ連には南下政策が有りました。)

 天皇陛下の玉音放送後の銃を持っての抵抗命令は大変な決断であったとの説明でした。もう一つ私が調べた所、満州勤務時代1938年ナチスの迫害からシベリア鉄道で逃れてきたユダヤ人達が居ました。現地当局はドイツとの関係を考慮して入国を拒否するが、当時特務機関長だった樋口季一郎は「これは人道問題だと入境を認めさせた。」後に〈樋口ルート〉と呼ばれる脱出路に最大2万人のユダヤ人が救われたと言われています。

 ユダヤ人を救ったと言えばリトアニア領事代理だった杉原千畝さんが有名ですが、外交官と軍人は違います。戦後軍人は評価スポットが当てられないのが有ったと思います。占守島で戦わなければ北海道の今は無い、ウクライナのように蹂躙されロシア領にされていたかも知れない。

 今日の平和の日々を送れるのも、先人たちの必死の努力と犠牲が有ったものと感謝して話しを終わります。 (山内 進)


絵手紙教室


大西 孝子

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