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9月 01

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会員の広場(2018.9)


短 歌
パンを焼く匂ひ花々咲く香り
 五感のさわぐ朝のウォーキング (本田 征子)

初級川柳教室
葉を茂るイチョウに大地の力見る
 夏至の空 入道雲に 夏近し
  梅雨の間の日射しに洗濯子だくさん (塚下健太郎)

風が吹き 空一面に 雲走り
 ふと見遣る深いまなざし胸に染み
  名残りおし夕焼け空がとまどって (伊藤 田鶴子)

また逢えば大人の恋になる予感
 お代りをせがんでみたく猪口で飲む
  出発を見送りおえて目を腫らす (江崎 弘子)

俳 句
教会の鐘のひびきも秋に入る    
雨後の風触れる草木や秋の山(川口 昭治)
五行歌
母台所でシクシク
 ママ泣かないで 
 オレが守ってやる
 三歳児の男気
 紙オムツ使用中です (小町)

昔旅した
小樽の町を
なつかしさでブラブラと
時間が思い出の中に                
とけてゆく (田村 信子)

エッセイ

「番台に座ったさくら湯の想い出」(1)

私の出身は利尻島です。明治の中過ぎ祖父の代に福井県から移住しました。宮大工だった祖父が兄弟や親類と共に利尻島鴛泊村という漁業が主流の村へ移住しました。そこで、宮大工だった祖父が棟梁となり、利尻、礼文の仏閣建立や島内の学校の建設にも関わり、大変役立ったそうです。その他、生業として風呂屋とか酒造業なども営みました。今日はその風呂屋で中学1年生から番台に座っていた頃を思いだしながら綴ってみようと思います。

この風呂屋は大正時代に建てられた建物で、名前は「さくら湯」と云います。私が小学6年を卒業した3月に番台担当だった祖父が亡くなり、4人姉妹の長女だった私は当然の様に番台に座る様になりました。それ迄も時々祖父母と番台に座っておりましたからあまり、抵抗もありませんでした。

風呂の開業は3時からです。学校から帰ると番台が待っています。その頃の入浴料金のシステムは大人20円、中人(中学生)15円、小人(小学生以下)10円、洗髪料(大人女性)15円でした。

番台に座った初めの頃は、混んでくると大変でした。学校で明日、身体検査とかの時は、家族連れで来ます。大人1人、中人2人、小人2人など。それが何組も来るのです。今の様に電卓もないし、そのころ私はまだ珠算もできなかったので、お客さんと一緒に計算したり、お釣りを間違えたりの連続でした。でも、だんだんに慣れてくると、番台に座りながら本が読める様になり、その本に夢中になっている間にお客さんから履いてきた下駄が無くなりました。でも、それは間違えて履いて行ったのではなく、最初からチビた下駄を履いて新しそうな下駄を履いて行く知能犯というか一番お粗末な人間でした。現在のように施錠する下駄箱ではなく、備え付けの段状になって履物を置いておくだけのものでしたから、番台にいても誰がどんな履物を履いてきたかなんて見ている暇もありません。お客さんに怒られては、父か母が来て、謝ってくれて、お客さんに湯札(入浴チケットのようなもの)を渡して、家にある下駄か残っていた履物で我慢して貰ったこともありました。でも、下駄くらいだとまだよいのです。これが長靴となるとまた、大変でした。まだ物資の乏しい昭和24年頃ですから冬の長い利尻は貴重な用品です。せっかく大事に履いていた長靴を風呂屋で盗まれたと、お客さんに30分以上も同じものを返してくれと云われ両親も困っていたことを覚えています。このような履物事件は圧倒的に男湯に多かったです。 
女湯でもトラブルがありました。女湯では母親と一緒に湯船に入っていた赤ちゃんのウンチが、プカプカ浮いたり、下痢状の時にはお湯を捨てて新しく入れ替ました。

3時からの営業ですが、そのころは、スナックで働く女性とか、近所の暇なお婆さんたちとかが入浴に来ます。スナックの女性たちが下着を洗濯していたとき、お客さんから、「あの女性達が下着の洗濯をしている」と警告を受け、本人達に注意したり、時々女湯に入っているときに覗いてみたり。でも、時が経つとまた洗うので、大喧嘩をしたことがあります。「あんた達が洗濯するのに家は風呂屋をやってんじゃない。もう来ないでくれ」と生意気なことも言いました。もうこちらは子供扱いされたくないと云う一心でした。 (続き) (福栄 真理子)

コラム

「後悔と反省」 先に立たず

京都の紀三井寺だったと記憶していますが、今も心に残る掛軸を目にしました。
「気は長く心は丸く腹立てず口謹めば命長かれ・・・」
誰もが日頃当り前の様に心に留めている筈の教訓ではありますが、兎角精神的に安定を欠いている時など
その教えも何のその、思わぬ失敗をすることもある様に思われます。
 私は今でも後悔していることがあるのですが、入会して7~8年経ていた頃シーズネットを退会し、又
2年余りして再入会したという経緯があります。当時シーズネットでは「ほっと安心クラブ」と称し会員
対象に介護保険外の家事支援を行っていました。皆一生懸命関わって居りましたが、ある時期から私は
仕事をしてゆく上で今一気持にそぐわないものを感じ、いつかこの仕事から離れる時が来るかも知れないと考えるようになりました。
その年の暮に外部から支援に関してベテランと見受けられる方の訪問があり、その方の会話から私の様な素人は「ほっと安心クラブ」には必要無いと勝手に判断し、代表のお引き止めにも耳を貸さず即退会しました。
今思うと紀三井寺の教えなど心の何処にもありませんでした。退会後シーズネットが自分にとって大切な居場所であったことを痛感し、友人の後押しもあって2年余後出戻りを決意しました。再入会については、戻るべき処に戻って来られたという気持ちで本当に幸せでした。やはり今までの私の度量が貧しかったと反省し、シーズネットが自分にとって必要な場であることを改めて自覚しました。今後も後悔山積みで齢老いて行きますが、自分を修正しながら優しく接して下さる皆様に感謝しつつ、もうしばらく会員として活動も含め色々学ばせて頂けたらと願って居ります。 (宮岸 和子)

絵手紙

(大西 孝子)

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