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2月 01

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「こんな夜更けにバナナかよ」を観て(1)

NPO法人シーズネット理事長 奥田 龍人

今を時めくといっても過言でないほど活躍している北海道出身の俳優大泉洋が主演する話題作「こんな夜更けにバナナかよ」を、正月休みに観てきました。マスコミでもかなり宣伝しているので、皆さんもご興味がある映画ではないでしょうか。実は、私には深い思い入れのある実話を映画にしたものです。ちょっと長くなりますが、このあたりのいきさつを会員の皆さんに知ってもらうことも、今を一所懸命生きている障害者の方々へのご理解を深めていただく機会かと思い、語らせていただきます。

主人公のモデルとなった鹿野さんとは私は3~4回お会いしています。一番初めに会ったのは、まだ鹿野さんが授産施設(障害者に就労や技能の修得を与える施設)にいた頃で、鹿野さんは事務職で経理をしていました。私は障害者施設の職員として、障害者の就労の手段を勉強するために見学に行ったときです。その後、鹿野さんが自立生活(施設に頼らず地域で生きていくという方向性を目指した生活)を始めて、何回か障害者の自立生活のシンポジウムや山の手のケア付き住宅(映画の舞台となっている鹿野さんの自宅)でお会いしています。

私が福祉に関わったのは1976年に道立の肢体不自由者訓練センター(今は廃止)に配属されてからのことです。まだ24歳の若造でしたが、そこに入所している生徒からは「先生」と呼ばれ、とても違和感を覚えたものです。同年代の障害者もいて、彼らから「先生」と呼ばれることは特に嫌でしたね。その頃の障害者福祉は本人の意向などあまり尊重されず、親とか「先生」のいうがままの人生選択しかなく、それも「施設が足りないからもっと施設を造れ」という親たちの大合唱が起きている状況でした。道立福祉村(栗山町)という障害者の大規模施設が出来たのはそのような背景があります。

私の勤めた施設は、職業能力を得て次のステージに向かうというところだったので、いつも進路のことが本人、親、職員の悩みの種でした。脳性まひという障害を持っている方がほとんどでしたので、正直あまり職業に就けることは少なく(今でこそパソコンという道具があるので職業選択はだいぶ変わりましたが)、多くの方がずっと入所していられる施設を選択するしかないという中で、それすらも待機という状況でした。

そういう中で、小山内美智子さん(映画にも本人がちょっと出ていましたね)という脳性まひの障害者が友人とともに「福祉村に個室を」という要望を掲げ立ち上がりました。当時の福祉は、「個室」という考えすらなかったのです。その後、小山内さんはボランティアを集めアパートを借りて自分で生きるという生活を実験しました。その経験から、施設に入ることではなく、地域であたりまえに生きていくことを目指し始めたのです。鹿野さんの自立生活の選択にも大きな影響を及ぼした動きでした。
(この項続く)

※「障害者」の表記は、「障碍者」、「障がい者」など定まっていないところがありますが、ここでは法で使用されている「障害者」とさせていただきます。

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