沈む銀杏の静かな覚悟
誰れかれに己を語らず逝きし母
その六〇年を我は語りぬ (本田 征子)
ひっそりと日々に悔いなし老いた蛾
生き延びて星の輝く夜を待つ (浜 正吉)
雪しまき卒寿のあゆみ二歩三歩 (川口 昭治)
落葉踏みしめ
コンサート
余韻は帰りの
お月様 (福栄真理子)
風の匂いが変わる
木の葉がザワめく
かさっかさっ さくさくさく
踏みしめる土の感触が変わる
季節が過ぎていく (塚下健太郎)
札幌円山界隈
戦後母方の祖母が、大通り西28丁目で、1軒屋に1人で住んで2階を独身者に部屋貸ししていた。今でいえば独居老人である。市電円山公園駅は、歩いて5分、円山公園は、歩いて2分の距離にあった。このあたりが、当時の札幌市の一般的な住宅地で、ガスはなく水道も手押しのポンプだった、買い物は、西24丁目の円山市場まで4丁歩くのだった。この1帯は、円山界隈として呼ばれていた。ちょうど今のアメリカ領事館のすぐそば一帯である。
祖母の円山の家には、母に連れられ、よく遊びに行った。市電円山公園駅を降りると右に折れ、北へ向かって北1条通りの手前の右側だった。三角屋根の玄関を入ると右に、二階への階段、左に縁側があり廊下がありその先はトイレ。居間には炉があり、床の間があり、当時としては、きわめて普通の住宅だったように思う。
市電円山駅界隈は、春の花見時以外は、閑静な住宅街で、朝早くには、市電の発車の信号音が、茶の間の窓から聞こえたものだった。公園駅を降りてまっすぐ公園内の道なりに進むと、左に坂下グランド。子供たちの格好の遊び場だった。
のちに会社の対抗親睦野球で初めてユニホームを着たのもこのグランドだった。戦後円山動物園は、まだなく上野動物園の移動動物園が定期的に開催されていた。1,2回行っただろうか、記憶は少ない。
移動動物園は、記録によれば最後に行われたのが昭和25年、好評だったので昭和26年に札幌円山動物園が完成している。私の中での円山界隈は、今も昔の儘の円山である。
いま私は、札幌に昭和41年から52年間、暮らしているが、札幌の様に移り変わりの激しい町は、全国の町と比較しても稀なのでは、なかろうか?
来た当時の札幌は、道内はもとより道外とも違う、いわゆる独特の風格を持った北国の町だった。それが札幌オリンピックを機会に一気に街も緑も、すべてが破壊へと進んだ。その対価として我々は、経済の恩恵を受けたが・・・・
それは、便利さ、経済優先、を求めるあまり、不要な道路の開発山林を切り開き宅造、沢や谷を埋め立て宅造、こののち札幌の破壊は、経済の発展とともに、ますます進んで行くのではなかろうか?
しかしその中でも、将来に向けて残すべき札幌の遺産とは、何なのか。
我々皆が、真剣に考えてみるべき必要がなかろうか? (小林 貴光)
シングルの会 一泊旅行
午前10時、札幌駅を出発シングルの皆さんを乗せたバスは、岩内グリーンホテル一泊旅行へと、見渡すかぎりの美しい紅葉の景色の中を走る、雲ひとつない青空に映える紅葉は見事で、まるで絵の中に居る様でした。
皆さんも心の高揚を覚えた事でしよう。途中、大仏様に手を合わせご利益を頂き岩内のホテルへ。紅葉山々、海の見える場所です。
さっそく湯(くすんだ黄緑色)につかり、一息ついてビールで乾杯し、アワビの踊り焼きを食べ、夕食を満喫。
代表のマイクで一人ひとりをユーモアをまじえて紹介し、ホホゆるむ楽しい夕食の後、続いて2次会カラオケ。
私も一曲歌い、皆さん耳をかたむけてくださり幸せでした。次にゲームで2人(男の人)が目かくしされ、前に座った2人(女の人)がおかめの面をかぶり、マジックで目、鼻、口を画く。大笑いでした。
楽しい時を過ごし、翌日は、2度目のきのこ汁をいただき、美術館めぐりをし、〝喜″の字の多い、楽しさ盛沢山の旅でした。(シングルの会の1泊旅行 10月22日) (ホヤ レイ)
後期高齢者入り記念に
マイカーを手放してからもう10年以上が経ちました。
札幌市内に住んでいると、特にマイカーを所有している必要性は少なく、長らく使っていない運転免許証は本人確認書類としてのみ存在意義がありました。
このほど、後期高齢者入りの記念に運転免許証を返納し、運転経歴証明書の交付を受けました。手続きは簡単で、免許証と印鑑を持参するだけです。 (佐藤 駿)

(本田 征子)